コラム

2023.03.06

法疫学講座第01回≪はじめに,本講座の目的,参考文献≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許

□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)

□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)


法疫学講座第01回≪はじめに,本講座の目的,参考文献について≫

1 ≪はじめに≫

このサイトでは,裁判において疫学はどういう役割を果たすのかについて講義します。裁判の場における疫学を英語ではForensic Epidemiologyとか,最近ではLegal Epidemiologyとか言われていますが,この講座では,簡単に「法疫学」と名付けます。法疫学とは言っても医学の一分野である「疫学」が,民事・刑事を問わず訴訟(特に因果関係)においてどのような役割を果たすのかについて主に論じています。ですからこの講座は,裁判実務において疫学を活用したいと考えている法律実務家(または法律実務家を目指している方)が対象となるのではないかと予想していますが,別に対象は限定しません。

私と疫学の出会いは,被爆者援護法の原爆症認定訴訟の原告代理人を担当した時から始まります。もう20年以上前になりますが,その頃は,被告から提出される書面にコホートという言葉が出てきて非常に戸惑ったことを覚えています。幸い,この訴訟は我々が勝訴しましたが,訴訟をとおして自分の疫学の知識が皆無なのを知って不安になりました。そこで大学で疫学の勉強をしようかと迷いながらネット検索していた時に目に入ったのが,当時,東北大学法学部教授で健康政策学を担当なさっていた坪野吉孝先生のサイトでした。シラバスを見て東北大学法学部でも疫学の講座があるのだと喜んで先生に連絡し,授業に潜り込ませていただきながら勉強を始めたが疫学との付き合いの始まりでした。坪野先生の疫学の授業とセミナーには2年にわたって参加させていただいたので,法疫学の基本となる知識は得ることができたと考えています。

2 ≪本講座の目的≫

先生の法学部での授業では,因果関係の評価,研究デザイン,システマティックレビュー,がん対策等々,内容が多岐にわたり,目からうろこが落ちる思いでした。授業以外では「医学がわかる疫学」(Raymond S. Greenburg編著.新興医学出版社)を読み込むゼミに参加しました。訴訟では,公害問題,環境問題等々,因果関係が問題となる場合が非常に多いのですが,日本の法律家のほとんどは,因果関係を科学的に分析するという手法に慣れているとは思われません。「『非因果的な競合的解釈の否定を通した因果性のネガティブな承認』という推論の形式が今日の疫学において標準的な因果推論の方法」(坪野吉孝著「栄養疫学」p24,「疫学 新型コロナ論文で学ぶ基礎と応用」p14~)であるとされているのですが,その意味も日本の法律家はあまり知らないようです。

そこで私が法律家として訴訟という実践(又は実戦)をとおして得て,書きためた疫学の書面・論文を基にして,日本の法律家のレベルアップに寄与したいという切なる思いから,本講座を始めることにしました。講座における記述は基本的に公刊されている信頼のおける見解に限定し,閲覧者のみなさんが記述内容の確認をすることができるように配慮しました。

本講座は法律家を対象としているので疫学の初歩から論じたいのは山々なのですが,そうするといつになったら訴訟における疫学的核心的議論に入ることができるのか分からないので,疫学の初歩的知識については,次の3に挙げる参考文献からご自分で勉強してください。疫学を初歩から学びたい人には,初心者が陥りやすい点にも配慮した「疫学 新型コロナ論文で学ぶ基礎と応用」(坪野吉孝著)([坪野])の「Ⅰ 基礎編」から入るのがお勧めです。

3 ≪参考文献を教えてください≫

本講座の対象が主に法律家になる思われるので,私が参照する文献としては,法律書よりも疫学関連が主となるのですが,一応,以下の教科書類(疫学一般の教科書類と放射線関係の文献)を紹介します。

A. 基本文献

⑴ 「Reference Manual on Scientific Evidence , Third Edition」(National Research Council; Federal Judicial Center)(日本語翻訳は無い。)(以後[Reference Manual]といいます。)

a. これは,子どもの障害は母親が妊娠中に服用した薬ベンデクティンBendectinが原因であるとして製薬会社を訴えた1993年ダウバートDaubert対メレルダウ製薬MERRELL Dow Pharmaceuticalsの訴訟で,米国連邦最高裁が,科学的証拠の証拠の許容性admissibilityについて,1933年MERRELL事件で示された「一般的受容general acceptance」は必要条件ではなく,事実審裁判官は関連性があるだけなく信用性のある科学的証拠を選別しなければならないと裁定したために,裁判官は特に疫学概念に関する基本知識を理解していなければならなくなったこと等に伴いFederal Judicial Centerから出版された裁判官向けの手引きです。無料でダウンロードできます。

b. この中の疫学に関する[Reference Guide on Epidemiology]が重要です。疫学の勉強を始める方は,同文献の特に「VII. What Role Does Epidemiology Play in Proving Specific Causation? 」(p608~)だけでも読んでおくことをお勧めします。同文献の著者の一人であるGordis先生の疫学の講義(Epidemiology Leon Gordis Lecture)がユーチューブでも視聴できます。「審理に疫学が用いられる例が激増していることを考えれば,この裁定によって,少なくとも,疫学データを証拠として用いる訴訟に関わる多くの関係者に,疫学の高度の知識が要求されるようになったことに疑いの余地はないと思われます」([ゴルディス]pp354~355)というゴルディス先生の指摘は,米国だけの話ではなく,日本における訴訟においても全く同様だということです。

c.  また,疫学だけではなく毒性学に関する[Reference Guide on Toxicology]も重要です。「毒性学とは、医薬品や化学物質が生体に取り込まれ、吸収、分布、代謝、排泄、の過程で、母化合物やその代謝物が生体成分と相互作用することによって引き起される生体(時に生態系)にとって不都合な、好ましくない有害反応(毒性)を明らかにし、生じた毒性の発現機構を解明する学問分野である。・・・特に、上記のヒトに対する直接的な適用が不可能な化学物質の動物における毒性試験や各種のin vitro動物実験代替法で得られる毒性を明らかにし、ヒトへの外挿による安全性評価を行う科学でもある。」(日本毒性学会http://www.jsot.jp/about/index.html)とされています.

[Reference Guide on Toxicology]では,毒性学と法の関係,毒性学の研究デザイン,動物や細胞実験の結果を人間に外挿すること,毒物曝露と疾病との関連性の立証,個人の個別の毒物曝露と発病との関連性,毒性の人体への吸収・代謝,しきい値の問題,訴状にはどの程度の具体的な記載が必要か等々の法律家として知っておかなければならない問題を扱っています。ある程度疫学の応用分野という面もありますが,法毒性学(Forensic Toxicology)固有の用語・考え方を短期間に要領よく学ぶには有用です。

B. 毒性学

⑵ 「トキシコロジー」(第3版 日本毒性学会教育委員会編)([トキシコロジー])

この文献で基本用語を知っていると上記[Reference Guide on Toxicology]を読む際に分かりやすい。

C. 疫学

⑶ 「疫学」(Leon Gordis: Epidemiology,Fourth Editionの日本語翻訳)([ゴルディス])

上記Gordis先生による代表的教科書で木原先生等の名訳で学ぶことができます。この本を読みこめば日本の訴訟のあらゆる疫学の議論に対処できるという自信が湧いてきます。

⑷ 「臨床疫学 第3版」(Fletcher et al.: Clinical Epidemiology The Essentials ,Fifth Edition.の日本語翻訳)([フレッチャー])

フレッチャー先生の有名な教科書であり名著です。疫学の勉強を本格的に始めたい方には,フレッチャー先生のこの本かゴルディス先生の「疫学」か,どちらかの読み込みをお勧めします。

⑸ 「第2版 WHOの標準疫学」(世界保健機関)([WHO])

監訳者の序文にあるとおり「感染症や環境問題を含む多彩な事例が取り上げられ,豊かな国際性を帯びている」のが本書の特徴です。疫学の国際標準といえるものである。ペーパーバックもあるが全文サイトから無料でダウンロードできます。

⑹ 「ロスマンの疫学 第2版」(Kenneth J Rothman: Epidemiology An introductionの日本語翻訳)([ロスマン])

書名にIntroductionとあるので購入しましたが,当時第3章の因果関係まで読んだだけで読み進めることが難しかったのですが,最近やっと通読できました。とても入門書とは言えない奥の深いロスマン先生の疫学的思考を知ることができる名著です。特に,「第3章 因果関係とは何か?」「第8章 偶然誤差と統計の役割」「第11章 交互作用の評価」は,他の教科書とは異なる質の高さを知った様な気がしました。

⑺ 「Modern Epidemiology」Third Edition(Rothman et al.)([Modern Epidemiology])

上記Introduction⑸の著者であるロスマン先生による疫学の教科書で,百科事典のような教科書だという評判を聞きました。今は,第4版が出ています。

⑻ 「疫学 新型コロナ論文で学ぶ基礎と応用」(坪野吉孝著)([坪野])

弁護士としての知識の限界を痛感して東北大学大学院に入学した当時,同大学の疫学の講座を担当していた坪野教授による教科書です.基礎編の記述は初心者に親切で理解がスムーズであり100頁足らずのスペースで十分な基礎的知識が書かれています。応用編もコロナワクチンの疫学の考え方が分かる必携の一つです。

⑼ 「医学がわかる疫学」(Raymond S. Greenberg et al.: Medical Epidemiology,Third Edition)([グリーンバーグ])

上記の坪野先生の疫学のセミナーで使用した名著であり,「患者プロフィール」から始まる説明では,スタンダードな教科書では分かりづらい医療現場を具体的に知ることができ法律家向きと思いました。

⑽ 「疫学辞典 第5版」(Miquel Porta編 日本疫学会訳)([疫学辞典])

各項目について要領よくまとめられており,法律家が書面を書く時とか,正確な用語の定義を知らなければならない時に役に立ちます。

D. 統計学

⑾ 「独習 統計学 24講」([統計学])「独習 統計学 応用編 24講」([統計学応用編])(鶴田陽和著)

数式よりも文章による説明が豊富で親切であり,法律家にはありがたい統計の教科書です。

⑿ 「現代統計実務講座テキストⅠ」(実務教育研究所Ⅰ)([統計実務講座])

これは,文部科学省人認定社会通信教育のテキストです。統計学を初歩から体系的に基礎的事項を詳しく学習したい場合には,この通信教育から始めるのも良いと思います。

以上の文献の他にも良い文献はまだまだ沢山あるのですがこれ位にし,講義を進めるにつれて必要とあらば,これ以外の文献もその都度挙げて行きたいと思います。それでは次回から法疫学の世界に入って行くことになります。よろしくお願いします。

以上