コラム

2023.04.03

医事法講座第06回≪医療過誤における過失⑸【狂犬病予防接種事件】≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許

□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)

□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)


医事法講座第6回≪医療過誤における過失⑸【狂犬病予防接種事件】≫

過失の認定に関する判例

1 狂犬病予防接種事件

これまで、注射化膿事件、消毒不完全事件、水虫治療事件を見てきた。注射化膿事件と消毒不完全事件は、治療行為としておこなった注射という施術に付随して生じた過失の事例であったし、水虫事件は治療行為として過剰に放射線治療を施術したという事例である。ところで本件は、狂犬病予防接種を継続施行したことに医師の過失を認めた事案である。

上告審:昭和39年11月24日最三判(民集18巻9号1927頁、集民76号239頁、判時397号34頁、判タ170号127頁)

第一審:昭和33年7月8日千葉地裁判決

控訴審:昭和36年12月20日東京高裁判決

 

2 事案

X(原告、被控訴人、被上告人、昭和14年6月2日生)は、昭和27年6月5日Aのセパード犬に右脚部を咬まれ、同日夕刻Y(被告、控訴人、上告人)方で診察と咬傷の手当を受けたところ、狂犬病予防接種を受けることになり、翌6日より同月19日迄毎日連続して14回にわたり人体用狂犬病予防ワクチンの注射を、第1回はYにより、第2回目以後はY方の看護婦により受けた。予防接種完了後の同月26日登校中気分が悪くなり高熱が続き、容態が悪化したので、他の病院への入院を経て、7月25日伝染病研究所大谷医師より狂犬病予防接種後麻痺症と診断され、同月30日東京大学美甘教授により同一に診断され、治療を受けたが、発病前に比し学業成績が著しく落ち知能上の欠陥を生じたという事例。

 

3 裁判経過

第一審:請求一部認容。

第一進判決は、狂犬病予防ワクチンの注射と後麻痺症との因果関係を肯定したうえで、Yが予防注射を開始したこと及びその施行について並びに後麻痺症発生後の診断と治療について、医師として過失があるかを論じた。

そして、予防接種を開始するかどうかついて咬んだ犬に狂犬の疑があるかどうかの判断は極めて重要な問題となるが、「狂犬の疑があるかどうかは(1)咬んだ時から遡って6ケ月以内に犬に狂犬病予防注射がしてあるかどうか(2)犬が飼犬であるかどうか、飼犬であっても野放しにしてあるか繋留してあるかどうか、最近犬の挙動に変調があるかどうか(3)付近に最近に狂犬病の発生を見たかどうか、(この場合大体3キロ以内、3ケ月以内を以て一応の標準とすること)を調べることにより判断される」。

「途中犬に狂犬の疑が薄れた時は直ちに注射を中止すべきものとされている」。

「以上認定の事実によれば、狂犬病予防注射による後麻痺の発生は低率ながら避け得られないものであり、15歳以下の少年にも起り得るものであるから、犬に咬傷を受けたからといって無闇に予防注射をなすべきでなく、(中略)(1)乃至(3)に掲げたような調査をなし、(中略)、右疑が薄いと判断せられる場合には直ちに予防接種を開始すべきではなく、暫く犬の様子を観察(被害者の家人を通じてなす等の方法により)するの処置に出ずべきであり、医師としては以上の注意をなす義務」がある。

「被告が原告に対する予防注射を開始した6月6日当時の加害犬に関する資料によれば、この犬が狂犬であるとの疑は殆どなかったとみるのが常識的であり、かかる場合には狂犬を疑わしめるに足るような新資料の得られる迄年少者なる原告に対してではあっても、暫く予防接種を差控えるべきであった」。「Yは後麻痺の発生につき医師としての過失を免れることはできない。」

 

4 控訴審:控訴棄却。

「狂犬病の予防接種は、その副作用として後麻痺症の発生する危険を伴うものであり(中略)苟も医師が狂犬病の予防接種を施行するに際しては、この点を慎重に考慮し、咬傷を与えた犬が狂犬の疑のあるものと判断すべき事情のある場合でない限り、安易にその施行を開始又は継続することはこれを避けなければならない義務がある」。

 

5 上告審:上告棄却。

「原判決ならびにその是認して引用する第一審判決が確定した事実関係のもとにおいては、上告人は、本件狂犬病予防接種施行に際して医師として遵守すべき注意義務を欠いたものというべきであり、その施行の結果発生した後麻痺のため被上告人が被った損害を賠償する責任を免れない」。

 

6 検討

狂犬病は、一旦罹病するば現代の医学では治療法がなく、100パーセント死亡するに至るのであるが、他方、狂犬の臨床的症状が現れる4、5日前に出る唾液中に狂犬病の病原体があるから、その頃以降に咬傷を受けると狂犬病になる危険性があるが、犬に咬まれて狂犬病になる比率は非常に低いこと、したがって、狂犬に咬まれた疑いがある場合には、予防接種をできるだけ早くすべきであるが、しかし接種した場合、低率ではあるが被接種者中に後麻痺症(軽いものもあるが、重いものは治っても知能上の欠陥を将来に残すものや生命を奪われる危険もある。)の発生することも避けられない。これを評して「狂犬病を前門の狼、後麻痺症を後門の虎」と表現する医学者がいる位である(注)。

(注)本件一審判決における指摘である。

上告理由においてY医師は、狂犬の「疑いが薄い場合には咬犬を観察してその間暫く注射を差控える義務があるというのは治療医学の実際を無視した暴論であって医師としては疑いが絶無というのでなければ注射を控えるべきではないし更に原審判示の注意義務は結果に於て医師に無過失責任を負わせることになる。」と主張した。

このような主張も尤もであって、判決が予防接種の開始をもってYの過失を認定していることに対して酷であるとの見地から「Yがとり敢えずXに対し予防注射を開始したことは非難できぬが、しかし、その後できるだけ早く証明書を取り寄せて呈示せしめるか、近所のことであるからAの犬のその後の状況を観察(狂犬ならば1週間以内にその症状があらわれる)して、もし異状が無ければ直ちに予防接種を中止すべきであった。Yが右のごとき注意を払わず、予防接種を2週間にわたって漫然と継続完了した点に、医師としての注意義務違反があったというべきであろう。」とする見解もある(注)。

(注)西井龍生「狂犬病予防接種事件」医療過誤百選106頁

これに対して、判決は予防接種の開始をもってYの過失を認定しているが、やはり狂犬病予防ワクチンの危険性に注目したからにほかならないと思われる。同ワクチンの注射によって、第一審判決も認定しているように、低率ではあるが被接種者中に後麻痺症の発生が避けられないのであるから、同ワクチンの注射は「本来的に結果(損害)発生の蓋然性(危険)を有する積極的行為(作為)」であると考えられ、できるだけ控えるべきであるとの価値判断が存在する。したがって、裁判所は、同ワクチンの注射に因って後麻痺症が発生した場合には、その注射を施した医師には注射に際して過失が存することを推定することにより、医師側で過失が存在しないことの反証に成功しない限りは、過失が認定されることになる。

この様な考え方を支えているのが、「人の生命および健康を管理する業務に従事する医師は、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるとすることは、すでに当裁判所の判例(昭和36年2月16日民集15巻2号244頁参照)とするところであり、したがつて、医師としては、患者の病状に十分注意しその治療方法の内容および程度等については診療当時の医学的知識にもとづきその効果と副作用などすべての事情を考慮し、万全の注意を払って、その治療を実施しなければならない」という水虫治療事件の最高裁判例である(注)。

(注)昭和44年2月6日最高裁第1小法廷(民集23巻2号195頁)

第一審判決は、狂犬の「疑いが薄いと判断せられる場合には直ちに予防接種を開始すべきでな」いとし、その疑があるかどうかは(1)咬んだ時から遡って6ケ月以内に犬に狂犬病予防注射がしてあるかどうか(2)犬が飼犬であるかどうか、飼犬であっても野放しにしてあるか繋留してあるかどうか、最近犬の挙動に変調があるかどうか(3)付近に最近に狂犬病の発生を見たかどうか、(この場合大体3キロ以内、3ケ月以内を以て一応の標準とすること)を調査することにより判断されるとした。そして、医師側としては、新たに「狂犬を疑わしめるに足るような新資料」を示すことができない以上、過失の推定を覆すことができず、過失が認定されるのである(注1)(注2)。

(注1)高津環・判解昭和39年度465頁

「要するに、Yは当時狂犬病の発病を恐れるあまり、予防接種による後麻痺症の危険については殆ど考慮を払っていなかったことが窺えるのであって、Xに対しても、まず予防接種をすればよいとの安易な考えのもとにこれを実施したことが認められ、そして、本件加害犬に関しては、前記のごとく本件予防接種開始当時既に狂犬でないであろうとの推測をなしうる程度の資料があり、かつ後に狂犬でないことが証明されたのであるから、Yは医師としての注意義務を怠って全く無用の予防接種を開始し、これを完了したものというべきで、これによってXに後麻痺症が発生したのであるから、かりに、予防接種の実施中において、または発生した後麻痺症の診断および治療上において、YにX主張のような過失がなかったとしても、Yは後麻痺症の発生につき医師としての過失の責を免れないとしている。」

(注2)私見としては、医師としては、上記(1)から(3)の事情を調査することが可能なのであろうか疑問なしとしない。「結果に於て医師に無過失責任を負わせることになる」との上告理由は当を得ていると言わざるを得ないのではなかろうか。Xの後麻痺症は救済されなければならないことは否定できないとしても、医師の過失を認めて医師に責任を負わせる形で解決するに適した事案なのであろうか。むしろ、製薬会社又はワクチンを認可した国の責任が論及される場合ではなかろうか。

以上