コラム

2023.04.03

医事法講座第10回≪医療過誤における過失総論⑼【薬剤の能書に関する事件】≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許

□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)

□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)


医事法講座第10回≪医療過誤における過失総論⑼【薬剤の能書に関する事件】≫

過失の認定に関する判例

Ⅰ 薬剤能書事件

1 輸血梅毒感染事件、インフルエンザ予防接種事件、痘そう予防接種事件に続き、一般診療の場合の説明書に関する裁判例として2件検討する。

1つは,チトクロームCを注射した際の事件である。

上告審:昭和60年4月9日最三判(裁集民144号433頁)

第一審:不明

控訴審:昭和57年1月27日名古屋高裁判決

 

2 詳細な事実関係は不明であるが、チトクロームCを注射した結果、亡Tが死亡した事件において、医師側が「薬剤の能書等に使用上の注意事項として、本人又は近親者がアレルギー体質を有する場合には慎重に投与すべき旨の記載」されているに過ぎないという反論に対して、「薬剤の能書等に使用上の注意事項としては、患者本人又は近親者がアレルギー体質を有するときは慎重に投与すべき旨が記載されているにすぎない場合であっても、当該薬剤の注射がショック症状を起こしやすいものであり、右症状の発現の危険のある者を識別するには医師による患者本人及び近親者のアレルギー体質に関する適切な問診が必要であることが当時の臨床医の間で一般的に認められていた等判示の事実関係のもとにおいては、医師がかかる問診をしないで右注射をし、これに起因するショック症状の発現によって患者を死亡させたときは、当該医師に医療上の過失がある。」と判断した事例である。

 

Ⅱ 医薬品添付文書事件

1 もう1つの説明書きに関する事件が医薬品の添付文書に関する事件である。

上告審:平成8年1月23日最三判(民集50巻1号1頁、判時1571号57頁、判タ914号106頁)

第一審:昭和60年5月17日名古屋地裁(民集50巻1号79頁)

控訴審:平成3年10月31日名古屋高裁(民集50巻1号115頁)

 

2 事案

本件は、被上告人が経営する病院で虫垂炎切除手術を受け、その手術中に起った心停止等により脳に重大な損傷を被った上告人が、その両親である上告人らと共に、被上告人とその医師らに対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為を理由として損害賠償を求めた事例。

第一審:いずれも請求棄却。

控訴審:控訴棄却。

 

3 上告審:一部破棄差戻し。

「医薬品の添付文書(能書)の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が、投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が医薬品を使用するに当たって右文章に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される」。

「被上告人鳥本が能書に記載された注意事項に従わなかったことにつき合理的な理由があったとはいえない。すなわち、昭和49年当時であっても、本件麻酔剤を使用する医師は、一般にその能書に記載された二分間隔での血圧測定を実施する注意義務があったというべきであり、仮に当時の一般開業医がこれに記載された注意事項を守らず、血圧の測定は5分間隔で行うのを常識とし、そのように実践していたとしても、それは平均的医師が現に行っていた当時の医療慣行であるというにすぎず、これに従った医療行為を行ったというだけでは、医療機関に要求される医療水準に基づいた注意義務を尽くしたものということはできない。」

「したがって、被上告人鳥本には、本件麻酔剤を使用するに当たり、能書に記載された注意事項に従わず、二分ごとの血圧測定を行わなかった過失があるというべきであり、この過失と上告人孝典の脳機能低下症発症との間の因果関係は、これを肯定せざるを得ない。」

 

4 検討

本件は、本件麻酔剤の能書には、「副作用とその対策」の項に血圧対策として、麻酔剤注入前に1回、注入後は10ないし15分まで2分間隔に血圧を測定すべきであると記載されていたが、能書のこのような記載にもかかわらず、手術当時の昭和49年ころは、血圧については少なくとも5分間隔で測るというのが一般開業医の常識であったとして、被上告人医師に過失があったということはできない、という主張に対して、上告審は「医薬品の添付文書(能書)の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が、投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が医薬品を使用するに当たって右文章に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される」と判断したものである。

上告審判決は、医薬品の添付文書(能書)は、医薬品の副作用等につき最も高度な情報を有している製造業者等によって患者の安全を確保するために記載されるものといえるから、医師は、原則として、添付文書に記載された使用上の注意事項を守らなければならないという注意義務が存するという医療水準論を前提として、本件麻酔剤の能書の記載事項に従わないで、それによって医療事故が発生した場合には、過失が推定されるとしたのである。本件麻酔剤の能書に従わないで麻酔を投与されて手術を実施・続行する医療行為の危険性を認め、そのような行為は、本来的に医療事故発生の高度な危険性を有する診療行為であるという見地から、結果が発生した場合には、過失を推定するとしたものである。

そして、因果関係については、「血圧低下を発見していれば、被上告人医師としてもこれに対する措置を採らないまま手術を続行し、虫垂根部を牽引するという挙に出ることはなかったはずであり、そうであれば虫垂根部の牽引を機縁とする迷走神経反射とこれに続く徐脈、急激な血圧降下、気管支痙攣等の発生を防ぎ得たはずである。」と判断し、被上告人医師には、「本件麻酔剤を使用するに当たり、能書に記載された注意事項に従わず、2分ごとの血圧測定を行わなかった過失」と、上告人(孝典)の脳機能低下症発症との間の因果関係は、これを肯定せざるを得ない」と結論づけた。

本件上告審において過失が推定されるという場合の推定が、単に事実上の推定を意味するのか、一応の推定を意味するのかは、明らかではないが、上告審判決が、「本件麻酔剤の能書に従わないで麻酔を投与されて手術を実施・続行する医療行為の高度の危険性」の存在を前提としていることは明らかである。それは、麻酔剤の能書に従わないで手術を実施・続行する場合には、その手術によって医療事故が発生する高度な危険性を有するという経験則を最高裁が肯定したものといいえる。

(注5)中野貞一郎「医療裁判における証明責任」ジュリ548号・310頁は、「表見証明が認められるためには、一定の場合に必要な注意を欠いてかくかくの行為に出れば、ほとんどすべての場合にこういう損害が生ずる、というティピカルな現実経験の集積―ドイツの理論にいう『定型的事象経過』―に裏付けられた強力な蓋然性をもつ経験原則の存在が前提となる」と指摘するが、能書に従わない手術の実施・続行から医療事故が発生するであろうとの「強力な蓋然性をもつ経験原則」を最高裁が認めたと理解される。

以上