コラム

2023.04.04

医事法講座第13回≪医療水準論⑵【長崎市民病院事件】≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許

□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)

□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)


医事法講座第13回≪医療水準論⑵【長崎市民病院事件】≫

第2章 医療水準に関する判例

今回から,具体的に事件の検討に入る。最初に,昭和50年代の最高裁判例である長崎市民病院事件である。

 

 

第1節 昭和50年代の最高裁判決

1 長崎市民病院事件

本件上告審判決(注)は、本症に関する医療過誤訴訟の最初の最高裁判決である。最初の判決であり、本件上告審判決が争点に対して正面から応えることはしなかったという評価が可能である。事案の概要は以下のとおりである。

(注)上告審:昭和54年11月13日最三判(集民128号97頁、判時952号49頁、判タ403号78頁)

第一審:昭和49年6月26日長崎地裁(判時748号29頁)

控訴審:昭和52年5月17日福岡高裁(判時860号22頁、判タ353号182頁)

 

事案

X(患児、原告・控訴人・上告人)は、昭和42年4月6日長崎市内において出生。出生時体重は、1400グラム。翌日Y1(長崎市、被告・被控訴人・被上告人)の長崎市民病院(以下「被告病院」という。)に入院。同病院にてY2(Y1の主治医、被告・被控訴人・被上告人)がXの主治医として保育医療にあたっていた。同年7月6日に退院、その後4ヶ月(生後7ヶ月)を経た同年11月15日他の眼科病院において、両眼の視力がほぼ完全に喪失していると診断された。

 

裁判経過

第一審:請求棄却。

一審においてXは、種々の点から医師の過失を論じているが、まず、具体的にY2の過失を論じる前提として、一般的に「未熟児の保育医療を担当する医師の注意義務」を論じ、「医師の注意義務を考えるに当っては、当該医師の個人的知識とか技術、あるいはその医師の所属する例えば長崎県といった限定された地域における医学上の知識や技術は基準にならないのであって、広く日本の医学水準を基準に判断すべきである。」と主張し、XがY1に入院し酸素補給を受けて保育された昭和42年4月当時の、わが国における小児科医学は、すでに酸素補給とR・L・Fの関係、R・L・Fの発生経過とその予防あるいは治療について」、「多くの出版物が出てR・L・Fは小児科学会でも問題にされ、小児科医にとって臨床的研究の基礎は十分提供されていた」と主張した。

これに対して、Y側は、Y2の酸素補給の仕方は、「未熟児保育上の医学的常道」に従った方法である。「昭和42年当時においては、未熟児網膜症について定期的に眼科医による検査をなすべきであるというような認識と関心は、」「日本医学の水準として一般化していなかった」。光凝固法も「研究段階の域を脱していない」。「Y2が昭和42年当時小児科医として日本医学の一般水準に達していないかの如きXらの主張は失当である。」と反論した。

第一審判決は、「医師は、専門家としての高度の医学知識に基づき自己の取りうる最善を尽くして患者の生命身体の安全をまもるべき義務をになっている」としながらも、「具体的にある医療行為が悪い結果を招来したとき、医師に過失責任を問うことができるか否かは、当時の医学水準(これを明らかに下まわる医療措置が行われれば過失ありといえる。)、当該医師のおかれている社会的地域的環境(事実上の専門医か否か、医療施設・研究施設の整った環境下にあるか否か)、医療行為そのものに内在する特異な性格(各種の医療制度や人的・物的制約の下で、刻々複雑に変動する病理現象に有限の知識と能力で対処するものであるから、ある程度の試行錯誤が不可避的であること)などを綜合的に考え合わせて、当該医療上の措置または不措置が社会的非難に値するか否かによって、これを決すべきものと考える。」として、基本的にはX主張の考え方を否定した。

そして、同判決は続けて、「Xに両眼の視力喪失という結果をもたらした未熟児網膜症あるいは失明にまで至る病状の進行が、Xに対しY2がとった医療上の措置または不措置に起因するかものか否か、そしてその措置または不措置が当時の医学水準その他に照らして過失行為といえるか否かが本件における最大の争点であるが、この点についての判断の前提となる未熟児網膜症に関する医学的知見をまず概観し、つぎにX主張の各過失の存否について検討を加えることにする。」とし、「未熟児網膜症に関する医学的知見」を「病態」「歴史」「発生原因」「予防および治療方法」にわたって詳細に検討している。

特に「発生原因」について判決は、「酸素と本症との関係はいまだ研究途上にあって正確な相関関係はわかっていない。また一部の医学者は、酸素よりも先天的素因を重視し、本症が以前から時々報告されていた先天性襞状網膜剥離あるいは先天性束状剥離にほかならないという見解を発表しているものもあり、結局未熟児網膜症の発生原因、発生機序はいまだ明らかでない。」と結論づけるが、「Xの失明と酸素投与との因果関係等」を検討する際には、「右報告例や酸素療法によって本症が誘発されるという一般に肯認されている臨床上の結論を総合すれば、Xについて発症の最も大きな因子となったのはその未熟性にあったとしても、失明に至るまで症状を進行させ、又は進行を助長させたのはY2の酸素療法であった蓋然性が高い。すなわち、Y2の行為とXの失明の間に因果関係を推定することができる。しかし、後にもふれるとおり本件においてはその発症の時期を確定するに足る証拠は見い出せない。」として結局因果関係を肯定するに至った(注1)(注2)。

同判決は、Y2に予見義務違背の過失が存するという主張に対しては、「医学上の所見にあっては、従来の観念を破る所見が発表されても、いまだ一部の眼科医、小児科医によって追試が行われている段階においては、その所説を前提として直ちに一般化し医師の予見義務を設定することはできない」とか、「酸素療法との関係で視力障害あるいは失明を招来したという具体的臨床例の報告が皆無に等しかったことに鑑みると、臨床医であるY2が本症について特段の研究をしなかったことをもって、法的な過失を認めえない」として退けた。

また、Y2の酸素供給上の過失については、「より厳しく酸素投与を制限しようとしていた一部の医学者らの基準からすれば、原告ら主張のように供給過剰と評しうる余地もあるが、未熟児医学に関する全体的見地からすれば、いまだ医師の臨床上の選択裁量の範囲内にとどまる措置というべく、水準的知見にもとる措置であったとは認め得がたい。」と結論づけた。

さらに、定期的眼底検査を怠った過失については、「定期的眼底検査の必要性を認めて当時これを実施していたのは極く少数の施設においてであり」、「当時における眼底検査は未熟児の保育医療上確立された附帯措置とはいまだいえない」として、やはりY2の過失を否定した。

(注1)なお、因果関係についてはいわゆるルンバール事件最高裁判決(昭和50年10月24日最二判)において、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。」と判断し、経験則に基づく認定を行ったが、既に第一審判決において、「一般に肯認されている臨床上の結論を総合」して、Y2の酸素療法が本症を引き起こした蓋然性が高いと結論づけたのであり、後に出されるルンバール事件最高裁判決(昭和50年10月24日最二判(民集29巻9号1417頁))への発展の可能性を含んでいたと考えられる。

(注2)徳本鎮(判評195号29頁)は、「本判決は、未熟児網膜症と酸素投与との間の因果関係の存在は、なんら疑いのない確定的なものとして認定しているのではなく、その存在することの高い蓋然性から推定しているわけである。」(同31頁)としている。

また、「本判決における蓋然性の程度は、結局、「専門誌『眼科』10巻9号に発表している・・・右報告例や酸素療法によって本症が誘発されるという一般に肯認されている臨床上の結論」という一般的・経験的知見ということになり、したがってまた、この程度の一般的・経験的知見があれば、未熟児網膜症と酸素投与との間には因果関係の推定が可能となるわけでもある。」(同32頁)とする。

 

控訴審:控訴棄却。

第一審に引き続き控訴審においても注意義務の基準に関し争われ、Xは「医師は、人の生命と健康を守るという職業の性格からして日々医学の水準に追いつくよう研究努力すべき義務がある。そして医学は自然科学であるから、洋の東西を問わず共通で普遍的なものである。しかして、右の医学水準も、当該医師の属する例えば長崎県といった限定された地域における医学上の知識や技術の水準ではなく、また日本のみに限定すべきものでもなく、広く世界の医学水準によるべきである。」「このようにわが国の多くの医師が少なくとも本症に関するかぎり、世界の医学、日本のトップレベルの医学に追いつく努力を怠っている現状を前提に、Yらが主張するような、わが国一般小児科医の医療水準をもって注意義務の判断基準とすることは不当である。」と主張した。

これに対してY側は、「医師の診察上の注意義務は普通の医師が具えるべき学問的、技術的能力の一般水準を基準として判断すべきである。一般的医学水準は『学問としての医学水準』と『実践としての医療水準』とに分けることができ、前者は将来において一般化すべき目標のもとに現に重ねつつある基礎研究水準であり、後者は現に一般普遍化した医療としての現在の実施目標ということができ、前記判断基準は右の後者の水準を基準とすべきである。Xらの主張する『世界の医学水準』が世界の医学先進国の最高の医学水準をいうのであれば、それは理想論であり、現実に立脚しない空論というほかない。」と反論した。この争点については、判決は直接は判断を示していないが、「未熟児の全身状態から果たして酸素の投与が必要か否かというような極めて高度の専門的判断については、それが明らかに不相当と認められるような事情の認められないかぎり、その点の判断は医師の裁量に任せられている」と述べ、結論として第一審同様に過失をすべて否定していることからも、本件判決も当然に第一審判決と同じ立場を採用していると解される。

控訴審判決は、本症に関して「本症の病態」「本症の歴史的背景」「原因」「治療および予防法」を検討し、そして第一審判決と異なってY1が設置した「市民病院における医療体制」について詳細に検討を加えている。

そして同判決は、ルンバール事件に関する最高裁判決(昭和50年10月24日)が出された後でもあり、Xの失明と酸素投与との因果関係については、第一審判決と異なって、経験則の手法により詳細な認定を行っている。すなわち、「Xが極小未熟児といわれるものであったこと」「極小未熟児の場合は、他に比較して酸素投与による本症の発生率が非常に高く、また失明や視力障害を伴う重症例が多いこと」「稀には酸素投与を受けないものにも本症の発生する例はあるが、そのほとんどは初期症例(活動期第一、二期)の段階で自然治癒しており、失明に至るような重症例はほとんどないこと」「酸素投与期間についても右原判決理由によれば延32日という異例に長期間であったというのであり、(中略)右のように長期間酸素を投与した場合の本症の発症率は極めて高率であること」「他に本件失明の原因となりうるものが認められないこと」などの事情を総合考慮して因果関係を肯定したのである。本判決では、「報告例や酸素療法によって本症が誘発されるという一般に肯認されている臨床上の結論を総合」して因果関係を認定しており、認定手法を比較すると控訴審判決は、経験則を用いた詳細な認定を行ったと評価できよう。

 

上告審:上告棄却。

上告審では、控訴審判決においては明示しなかった注意義務の基準たる医学水準についてXから質問形式で上告理由が提出された。要するに、「(イ)注意義務設定の前提となる『医学水準』とは何か、について明確なる概念を示されたい。(ロ)医学水準を定義づける場合、定義づけに至る理由を述べられたい。(その他は省略)」という上告理由である(集民128号114頁)。

これに対して上告審は、「予防ないし治療の方法は、当時における本症に関する学術上の見解や臨床上の知見として一般に受容されていたところにほぼ従って行われたものであって当時の医学水準に適合したものというべきであり、その間に特に異常ないし不相当と思われる処置が採られたとは認められないのであるから、小児科医師としての裁量の範囲内を超えた不相当なものであったということはできない。」とし、本件酸素供給管理上の措置に過失があったとは認められないとした原審の判断、本件酸素投与による本症の発症を予見し得なかったこと及び眼科医に依頼して定期的眼底検査をしなかったことをもって過失があったとは認められないとした原審の判断はいずれも正当。

 

検討

第一審判決において指摘されなければならない点は以下のとおりである。

未熟児網膜症について、X側は、未熟児保育医療を担当する医師の注意義務を判断する場合に、「広く日本の医学水準を基準に判断」するという考え方に立って、過失については、R・L・Fの発生原因、症状の進行形態、その予防対策等について、公刊されている文献等によって与えられる小児科学会の一般的知識を導き出し、その一般的知識を被告医師が欠いたことによって、R・L・Fの発症を予見することも、失明という重大な結果を回避する措置を講じることもしなかったという点に過失があると主張していた(注1)。

一方、Y側は、未熟児保育における酸素供与の必要性を強調し、R・L・Fと酸素の関係は今日においてもいまだ解明途上であること、未熟児網膜症が生命の保持と裏腹の関係で不幸にして発生する疾病であること、Y2の酸素補給の仕方は「未熟児保育上の医学的常道」に従った方法であること、未熟児網膜症について定期的に眼科医による検眼をなすべきだという認識と関心は「日本医学の水準として一般化していなかったこと」等を主張していた。

これに対して、第一審判決は、「当時の医学水準」、「当該医師のおかれている社会的地域的環境」、「医療行為そのものに内在する特異な性格」などを綜合的に考える立場を表明したが、「当時の医学水準」と述べていることからしてもXが述べる「一般的知識」を無視するものではなく、判断する場合のその他の事情として「当該医師のおかれている社会的地域的環境」、「医療行為そのものに内在する特異な性格」をも考慮して医師の過失を判断するというものであろう。

このような下級審での議論に対して、上告審では、真正面から「医学水準」という言葉に定義を与えることはしないで、控訴審判決の事実認定の前提として、「Y2のXに対してした予防ないし治療の方法は、当時における本症に関する学術上の見解や臨床上の知見として一般に受容されていたところにほぼ従っておこなわれたものであって(注2)当時の医学水準に適合したものというべきであり、その間特に異常ないし不相当と思われる処置が採られたとは認められないのであるから、小児科医としての裁量の範囲を超えた不相当なものであったということはできない。」と判断し、X側の上告を棄却したのである。医師の注意義務に関しては特に新しい判断を示したとは言えないが、医師の注意義務の基準に関して二つの対立した考え方が存在することを明確にしたという意義を有するのであり、対立した議論の中で「医療水準」に関する具体的な議論は、次回以降に持ち越されることになったと評価できる(注3)。

(注1)田上富信・判評230号21頁は、「酸素の投与が過失を構成するかどうかについては、厳密には、二つの場合をわけて考えなければならない。その一は、酸素の投与を適正に制限すれば、死亡もしくは脳障害を惹起することなく、失明を免れ得た場合である。前者の場合ならば、酸素の投与は違法性を阻却する事由になる。後者の場合は、酸素の投与量ないし投与期間が酸素療法を行った当時の一般的な医療水準に従っていたかどうかによって、過失の存否が決定される。すなわち、事後の医学水準からすれば酸素の投与が適正でなかったと判断されても、酸素投与当時の一般的な医学知識からすればやむを得なかった場合は、過失がないことになる。」と指摘し、本件第一審判決は、「右のいずれの場合に該当するか明言していないが、おそらく、両方の場合が混在しているものとして、一括して過失性ないし違法性を否定しているのであろう。」とする。

(注2)宇都木伸・ジュリ臨増718号89頁は、「医療水準が急変している際には、注意義務水準は基準時によって大幅に異なり、ことに何らかの顕著な予防法なり療法なりが開発されると、それが一般化したとみなされる時点から水準が一変するとする、いわゆる“線引”方式が採用されやすい。未熟児網膜症についても既決15例についてみれば、はっきりと線引の傾向がみられる。」と指摘する。ただ、「最高裁判決はこの上告人の主張に正面から応えず、単に原判決の判示の仕方および事実判断に違法はないというにとどまり、下級審判決以上のことを言おうとしなかったといえる。」と、本件上告審判決を評価する。

(注3)新美育文・判タ臨増439号115頁は、本件上告審判決について、「従来の最高裁判決と同様に、抽象的な判示しかしていない。原審認定事実からすれば、松倉説のいう『医療水準』に準拠した診療がなされていたから、Y2(主治医)に過失なしとしたと読むベきであろうか。」とし、本件上告審判決の抽象性を指摘する。

以上