コラム

2023.04.24

医事法講座第15回≪医療水準論⑷【未熟児網膜症における医療水準論の背景】≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許

□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)

□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)


医事法講座第15回≪医療水準論⑷【未熟児網膜症における医療水準論の背景】≫

第1節 昭和50年代の最高裁判決

3 未熟児網膜症における医療水準論の背景

日赤高山病院事件の上告審判決において、最高裁は初めて「医療水準」という言葉を使用したので、ここで、未熟児網膜症において医療水準論が登場する背景について論じたいと思う。

未熟児網膜症は、未熟児保育の過程で発生する特殊な疾病である。

未熟児は出生後すぐに温度と湿度を与えるための保育器へ収容され、数十日という相当の長期間を保育器の中で過ごし、その間酸素投与、栄養補給、排便を促す等々の措置を受けて保育される過程の全体が未熟児保育であり、その過程の中で生じる疾病が未熟児網膜症である。未熟児網膜症が発症する原因については、研究者間で種々主張されたが、未熟児保育の過程で行われる酸素投与と関係があるということについては異論を見ない。しかし、酸素投与自体は、未熟児が突発性呼吸窮迫や無呼吸発作の症状から引き起こされる酸素欠乏による脳性麻痺などの脳障害を予防する為に是非とも必要な措置であり、未熟児網膜症を予防するという意味で酸素投与自体を避けることはできないというのは異論を見ないところであり、医療従事者間でも共通の認識であるといえる。

このような認識は裁判例の中においても指摘されており、昭和52年2月9日福岡地裁小倉支部判決は、当時の慶応大学医学部教授眼科植村医師の報告等をつぎのとおり引用して説明している(判時878号41頁参照)。

「昭和45年同医師は『未熟児網膜症の正しい認識が一般に与えられず、医師の中にも未だ酸素過剰の医療過誤のごとき誤った概念を持つものがあることは、はなはだ遺憾にたえない。網膜症は未熟児哺育の施設の完備し、その生存率の高い施設に多く出るものであり、施設の不備で生存率の低い所には少ないことは米国でもわが国でも同様である。未熟児の酸素療法は、竹内の指摘するごとく、生か死か、脳か眼か、という三つの重大な問題をかかえているのであり、わが国でも米国におけるごとく、未熟児の酸素療法を主題にした関連各科の基礎的・臨床的な共同研究体制が一日も早くできることを望むものである』」。さらに、「昭和46年、同医師は医学書において『現時点においては、未熟児網膜症の確実な予防あるいは治療方法はない、これを予防するには、未熟児となることを避ける以外にはない』とすら言われている。」と。

この引用されている医師のことばは、酸素療法は未熟児保育においては不可欠な療法であるとともに、未熟児網膜症の原因ともなっているというジレンマを端的に表現したものであり、医師の苦悩を如実に表している。

酸素療法及びその他の未熟児保育の過程でなされる措置は、未熟児の生存にとって不可欠なものであり、未熟児網膜症の原因に関係があるという理由でそれ自体に危険性が存在すると法的に評価することはできないであろう(注)。

(注)先に指摘したように、「注射、手術、レントゲン放射、輸血など」(加藤一郎「不法行為」88頁)は「それ自体危険な行為」(平井宣雄「債権各論Ⅱ不法行為」32頁以下)と評価し、そのような診療行為から悪しき結果が発生した場合には、その診療行為を行った医師に過失が推定されるという事実上の推定の考え方が認められるが、未熟児保育の場合の酸素療法を未熟児網膜症を引き起こすという理由から「それ自体危険な行為」であると割り切ってしまうことは、酸素療法の未熟児保育における重要性からして、許されないと考える。

そこで問題は、酸素療法の施行を完全に医師の裁量の下に置いて、酸素療法の施行について医師の過失を認めるべきではないという考えを採用しない限り、酸素療法から未熟児網膜症が発生する危険性を認めながら、どのような場合に医師の過失を認め、どのような場合に過失を否定するかという限界を設定する必要が生じる。

当時においては、酸素濃度を大体40パーセント以下に抑えて置くべきだという知見、光凝固法という完全ではないながらも治療法が存在していた事情等々の存在を前提として、医師に対してどこまでの義務を課すのが妥当であり、課すべきなのか、その基準を設定する必要が生じることは避けられない。そこで、どのような義務を課すべきかの基準を設定して、医師の診療行為が当該基準を満たしていない場合には過失を認め、満たしている場合には過失を認めないとすれば、医師としては、その基準にしたがって診療行為を行うことになり、医師にとっても都合が良い。このような医師の注意義務の基準が医療水準である。

このように考えると、前記のとおり酸素療法が未熟児網膜症の発症原因であるにもかかわらず、酸素療法自体を危険な行為であると評価できず、また、通常の未熟児保育の過程において、酸素療法以外の保育上の行為も何らそれ自体において危険な行為と評価できない以上、未熟児網膜症の発症を回避する為の何らかの医療上の措置があったのではないかという観点から、出生から失明に至るまでの未熟児保育の全過程を眺めた場合に、探り出されたのが日赤高山病院事件においてX側が主張している「説明義務」及び「転医指示義務」という医師の義務なのである(注)。

(注)日赤高山病院事件上告審判決においては、医師の「注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であるから、前記事実関係のもとにおいて、所論の説明義務及び転医指示義務はないものとした」原審の判断は正当であるとした。

このように、未熟児網膜症事件を通して「医療水準」という考え方が生じてきたが、既に見てきたように、結果発生に対するそれ自体危険な積極的な診療行為が、診療経過において外面上認められない場合において、他に結果発生を回避する為に、医師がなすべき行為があったのではないかという観点から、医師に作為義務を特定するための手法として用いられてきた概念が「医療水準」であり、結果発生を回避する為に医師がなすべき行為をしなかったという点に着目するから、医師の不作為を問題にしている訳である。その医師の不作為が注意義務違反であるという結論を導く為の論理として、「医療水準」が登場したと考えることができる。

日赤高山事件上告審判決は、説明義務及び転医指示義務を否定する文脈の中で「医療水準」という概念を使用していることもこのような考え方を裏付ける。「説明義務」とは、説明しなければならないにもかかわらず主治医は説明しなかったという不作為、「転医指示義務」は、転医指示をしなければならなかったにもかかわらず主治医は転医指示をしなかったという不作為を意味する。説明義務違反、転医指示義務違反は、説明をしなかったという不作為、転医指示をしなかったという不作為が注意義務違反にあたるという意味であるから、その義務違反を判定する為の基準として「医療水準」という概念を使用したのである。ただ、「医療水準」という概念は、不作為による診療行為の懈怠という局面に限定せずに、一般に診療行為における医師の注意義務の基準として理解されるようになっている(注)。

(注)近時の学説は、医療水準は「過失存否の判断における注意義務の基準を構成し、これに基づき医師の過失の成否が決せられるとすべきこととなる。」(前田・稲垣・手嶋「医事法」246頁)とする。この説明は、医師の過誤の態様が作為にもとづくのか、不作為にもとづくのかを区別していないように思われる。

医療水準という用語は、未熟児網膜症の裁判以外においても使用されている。

特に、最高裁においては、平成8年1月23日最三判(医薬品添付文書事件)、平成11年2月25日最一判(肝細胞がん事件)、平成12年9月22日最二判(横浜総合病院事件)、平成13年11月27日最三判(乳がん説明義務事件判決)、平成15年11月11日最三判(急性脳症事件)、平成15年11月14日最二判(食道がん事件)、平成16年01月15日最一判(スキルス胃がん事件)等である。

このいずれの事件も、医師の不作為が注意義務違反となっている場合である。

医薬品添付文書事件では、「医師が医薬品を使用するに当たって右文章(医薬品の添付文書)に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合」に関する判例であり、使用上の注意義務に従わなかったという不作為が問題とされている。

肝細胞がん事件では、肝癌の早期発見のため、昭和58年11月4日の初診時からAFP検査を実施した昭和61年7月5日までの約2年8か月間の計771回に及ぶ診療においてAFPの定期的継続的検査を実施せず、また、エコー検査等の画像診断及びこれらを組み合わせた定期的スクリーニングも一度も実施しなかったし、癌を疑うべき数値が検出されたのに、癌の発症等がないものと軽信し、その対応処置をとらなかったという医師の不作為が問題とされている。

横浜総合病院事件では、胸部疾患の既往症を聞き出したり、血圧、脈拍、体温等の測定や心電図検査を行うこともせず、狭心症の疑いを持ちながらニトログリセリンの舌下投与もしていないなど、胸部疾患の可能性のある患者に対する初期治療として行うべき基本的義務を果たしていなかったという不作為が問題とされている。

乳がん説明義務事件判決では、乳房を残す手術を希望していたのに、医師が患者に対して十分説明を行わないまま、患者の意思に反して本件手術を行ったという場合であるが、説明をしなかったという不作為が問題とされている。

急性脳症事件では、重大で緊急性のある病気に対しても適切に対処し得る、高度な医療機器による精密検査及び入院加療等が可能な医療機関へ患者を転送し、適切な治療を受けさせるべき義務があったものというべきであり、医師には、これを怠った過失がある」という事案であり、転送をしなかった、適切な治療を受けさせなかったという不作為が問題とされている。

食道がん事件では、抜管後に患者の呼吸状態の監視を十分に行わず、再挿管等の気道確保のための適切な処置を採ることを怠った過失によるものであるという事案であり、不作為が問題とされている。

スキルス胃がん事件では、医師が適切な検査をしなかったためスキルス胃癌の発見が遅れたという事案であり、医師の不作為が問題とされている。

少なくとも、最高裁で医療水準という言葉が使用されているのは、医師がなすべき診療行為をしなかったという不作為が問われている事案が主であるから、医療水準が機能する多くの場合は、医師の作為義務の基準を特定する局面においてであると理解して差し支えないであろう。

このように医療水準が、医師の不作為の場合の作為義務の基準という局面において多くの場合機能するということは、作為による場合との相違に基づく。すなわち、作為による場合は、作為が積極的な行為であることからしても、それ自体危険な診療行為であって、因果関係が存する場合には、その作為自体に過失を推定するという事実上の推定(又は一応の推定)が働き、その推定の手法により、過失を認定することにより解決を図ることが可能である。したがって、作為による場合の過失認定に際しては、敢えて医療水準という概念を持ち込む必要性も認められないのである。しかし、不作為の場合には、医療水準という概念を医師の診療行為に当てはめて、医師の過失の対象となる不作為を特定することから作業が開始するという特殊性を有するので、医療水準という概念が是非とも必要となるのである(注)。

(注)新美育文「医療水準論―再度の混迷を回避するために―」司法研修所論集110号115頁以下が、概念の混迷状況に関しての論考であり参考となる。

以上