コラム
2023.04.24
医事法講座第20回≪医療水準論⑼【南大阪病院事件】≫
弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.
□博士(法学)
□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)
□毒物劇物取扱責任者(一般)
□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)
□エックス線作業主任者免許
□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許
□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)
□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)
医事法講座第20回≪医療水準論⑼【南大阪病院事件】≫
第2節 昭和60年代の最高裁判決
1 南大阪病院事件
本件(注)は、本症に関して医師側に過失を認めた事案である。ただ、本件は、他の本症の事案と若干異なり、医師の能力に問題があった事案である。
(注)上告審:昭和60年3月26日最三判(民集39巻2号124頁、判時1178号73頁)(判解昭和60年度54頁)
第一審:昭和55年12月20日大阪地裁(判タ429号72頁は判決書中事実を省略している。事実については民集39巻2号170頁以下参照。)
控訴審:昭和57年6月25日大阪高裁(民集39巻2号223頁以下)
事案
昭和51年2月8日X(患児、原告・控訴人(被控訴人)・被上告人)は、Y1(医療法人景岳会、被告・控訴人(被控訴人)・上告人)経営の南大阪病院(「南大阪病院」)で出生。一卵性双生児の第二子。在胎週数30週の終わり。生下時体重1200グラム。
同年3月10日南大阪病院において、木村医師による初めての眼底検査。
同年3月17日木村医師による第2回眼底検査。
同年3月24日古田医師による第3回眼底検査。
同年3月26日Y2(大阪市、被告、控訴人)の大阪市立大学附属病院(「市大病院」)において、阪本善晴医師による眼底検査。
同年3月31日南大阪病院において、木村医師による眼底検査。
同年4月1日市大病院において、松山道郎医師による眼底検査。
昭和49年度厚生省研究班報告(「本件研究報告」)の分類による活動期病変の第4期,剥離の末期であった。
同年4月2日、同8日北野病院において冷凍凝固法による手術が行われたが効果なし。両眼とも失明。
同年4月12日まで保育器内で保育。
同年4月22日退院。
裁判経過
第一審:請求一部認容。
本症の診断並びに治療に関する一般的基準
昭和49年、厚生省特別研究班が発足し、翌50年「未熟児網膜症の診断ならびに治療基準に関する研究報告」(本件研究報告)を発表し、これが、本症の診断並びに治療に関する一般的基準と考えられており、証人木村、同古田、同阪本、同松山の各証言によれば、右医師らは、本件におけるXの診断、治療に際して、本件研究報告の存在、その内容等を熟知していた事実を認めることができる」とし、木村医師、古田医師、阪本医師の過失を認めて、Y1、Y2の責任を認めた。
控訴審:Y2敗訴部分を取消、請求棄却。Y1の控訴棄却。
木村医師について過失肯定。
「木村医師の如く、本症患者2、3名の眼底検査を経験した程度の経緯を有するにすぎない医師としては、自己の技量の程度を自覚し、本症のような失明という重大な後遺症の可能性がある疾患に対しては慎重に対処し、少しでも自己の経験、知識に照らして不審不明な点を発見した場合は、直ちに経験豊かな他の専門医の診察を仰ぎ、時期を失せず適切な治療を施し、危険の発生を未然に防止すべき注意義務がある」。
「しかるに同医師がこれを怠り、(中略)一週間の経過観察として、次週に指導医たる古田医師の診察を求めたにすぎないことは、前記認定のとおり本件症例が劇症型であったことに照らすと不適切な措置であった」、「このためXは光凝固等の外科的手術の適期を逸し失明するに至ったものであるから、同医師には前判示認定の医師の注意義務に反する過失があった」。
古田医師について過失肯定。
「指導医として研修医である木村を指導監督する責任のある古田医師としては、木村が医籍登録後間もない研修医にすぎず、本症に関しても殆ど経験がなくその診断に信をおき難いことを容易に判断し適宜適切な措置をとらなければならない立場にありながら、木村医師から一週間で非常に症状が進行した旨の報告を受けてなお木村の診断から一週間を置いたことはXの主張のとおり杜撰であったというべきであり、劇症型が少数であること、古田医師には大阪医大における本務があり南大阪病院へは月1回の出張診療であることを考慮しても医師としての注意義務を尽くしたものとはいえず、過失を免れない。」
上告審:Y1の上告棄却。
本症の診断及び治療に関する一般的基準と一般的基準の認識について
「Xの本症罹患当時における本症の診断及び治療に関する一般的基準並びに被上告人の検査に当った前記各医師の右一般的基準の認識について、原審が適法に確定するところは、次のとおりである。(一)右一般的基準は、昭和49年に発足した慶応大学医学部眼科教授植村恭夫らからなる研究班が、翌50年に発表した『未熟児網膜症の診断ならびに治療基準に関する研究報告』に明らかにされているところのものである。」とし、「木村、古田、阪本及び松山の各医師は、本件におけるXの診断、治療に際して、前記の研究報告の存在、その内容を熟知していた。」と認定した。
さらに、控訴審が、Xの本症罹患当時の未熟児に対する定期的眼底検査の目的、時期等についての一般水準として確定するところは、(中略)本症の活動期の初発病変を捉えて、(中略)予後合併症の追及をなすこと等を目的とするものであって、生後できるだけ早期に、遅くとも3週以降眼底検査を開始し、本症の早期発見と進行の監視を行い、進行重症例への最も適切な病期における光凝固ないし冷凍凝固による治療を施すのが、実際的な対策であり、定期的眼底検査の頻度については、前記研究報告は、生後満3週以降1週1回、3か月以降は、隔週または1か月に1回、6か月まで行い、発症を認めたときは、必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を実施し、その経過を観察することが必要である、というものである。」以上の事実関係を前提として、控訴審の判断のとおり木村医師の注意義務違反を認めた。
検討
本判決は、昭和50年の厚生省研究班報告(「同報告」という。)をもって「本症の診断及び治療に関する一般的基準」と認定し、医師らが同研究報告の存在、その内容を熟知していたとして医師側の上告を棄却した事例であるが、「本症の診断及び治療に関する一般的基準」をもって、日赤高山事件、新小倉病院事件各上告審判決で指摘されている「医療水準」を指すのかどうかは明確でない。最高裁において「医療水準」という用語を最初に使用したのは日赤高山事件における第三小法廷判決(昭和57年3月30日)においてであり、その後第三小法廷は新小倉病院事件(昭和57年7月20日)において「医療水準」という用語を用いている。そして、本件も、医療水準という用語を使用して来た第三小法廷に係属していることからすると、第三小法廷が昭和50年の厚生省研究班報告をもって医療水準であるという認識であるならば、「本症の診断及び治療に関する一般的基準」という表現を用いずに、端的に、「昭和50年の厚生省研究班報告をもって医療水準である」と明示したはずである。
第三小法廷の伊藤正己裁判官は、日赤高山事件上告審、新小倉病院事件上告審及び本件上告審の3件のすべてに関与して、八幡病院事件上告審判決(昭和63年1月19日)においては、補足意見を述べるほど未熟児網膜症の審理に深く関わっているのであり、その第三小法廷が、本件において、医療水準という言葉を避け、同報告を「本症の診断及び治療に関する一般的基準」という言葉で示したということは何故か。
結論的にいうと、第三小法廷及び下級審は、当事者の主張内容からして同報告が医療水準であるかどうかの判断を示す必要がなかったと考えられ、その故に医療水準に関する判断をしていないと解すべきである。
まず、下級審における原被告両当事者の「医療水準」に関連のある主張を第一審の事実の中から見てみると、原告は、「光凝固法あるいは冷凍凝固法のいずれによっても、適期にこれらが施行されれば、本症による失明という重大な結果が回避され得るということは、原告の出生当時既に医学界における常識となっていた。」と主張し、同主張を前提として、被告らには定期的眼底検査を適確に実施して光凝固法あるいは冷凍凝固法を施行すべき義務があるにもかかわらず適確な眼底検査をなさず、このため光凝固法等を施行すべき適期を失した「手遅れ」により、原告に失明という重大な結果を蒙らしめたという主張をする。
これに対して被告は、「一般医療水準上要求される注意義務をすべて尽くしており、原告の本症発生には何らも過失もなく、したがって被告景岳会には責任はない。」とか「木村医師及び古田医師は未熟児の眼底検査を担当する医師としては可能なかぎりの努力を尽くしたのであって、これ以上の注意義務を両医師に課すことは、一般の医療水準を越えた不可能な義務を要求するものであると言わざるを得ない。」と反論する。
ところが、控訴審判決(及び第一審判決)は、前述のように、経験不足である木村医師は、少しでも不審不明な点を発見した場合は、「直ちに経験豊かな他の専門医の診察を仰ぎ、時期を失せず適切な治療を施し、危険の発生を未然に防止すべき注意義務」に違背した、研修医木村を指導監督する責任のある古田医師が、「本症に関しても殆ど経験がなくその診断に信をおき難いことを容易に判断し適宜適切な措置をとらなければならない立場にありながら、木村医師から一週間で非常に症状が進行した旨の報告を受けてなお木村の診断から一週間を置いたことは原告の主張のとおり杜撰」であり、医師としての注意義務に違背したと判断したのである。
以上のような事実関係の本件と、日赤高山事件及び新小倉病院事件の事実関係とを比較した場合の差異は、本件では「木村が医籍登録後間もない研修医にすぎず、本症に関しても殆ど経験がなくその診断に信をおき難い」経験不足の医師が患児の主治医として対象となっているという事実である。これに対して、日赤高山事件及び新小倉病院事件においては、木村医師のような研修医が対象となっているのではなく、通常の経験を有する医師が対象となっている。つまり、本件は診療行為を行う主体が、研修医という経験不足の医師である点で、他の未熟児網膜症裁判とは一線を画するものである。
日赤高山事件及び新小倉病院事件において医療水準を論じる場合、診療行為の主体たる医師は通常の経験を有する医師であることが前提となっているのであり、したがって、本件のように医師が研修医でしかない場合は、医療水準を論じる前提を欠くのである。本判決は、「医籍登録後間もない研修医にすぎず、本症に関しても殆ど経験」がない、木村医師とその指導医たる古田医師に過失の責任を問う為に必要な範囲での両医師の認識を問題とした。両医師が同報告を熟知していたという事実認定は、両医師に過失の責任を問う為の事実認定であったのである。したがって、通常の経験(研修医以上の経験)を有する医師の注意義務の基準たる医療水準の認定は不要であった(注1)。このような意味合いからして、同報告が医療水準であるかどうかは不明確なまま終わっているのである。
これは医療水準論の適用場面を明確にするという観点からしても、第三小法廷及び下級審は賢明かつ適切な判断であったと思われる。
本判決から導き出される結論は、未熟で経験不足である医師は、「少しでも自己の経験、知識に照らして不審不明な点を発見した場合は、直ちに経験豊かな他の専門医の診察を仰ぎ、時期を失せず適切な治療を施し、危険の発生を未然に防止すべき注意義務がある」という判例が示されたということであり、この場合「医療水準」を確定する作業は必要無く、上記注意義務を課すに必要な予見可能性を肯定できれば、未熟で経験不足である医師に対して過失責任を問うことができることになる(注2)。
このような考え方に対しては、「本判決は、昭和57年判決の立場を再確認し、その基準化の確立をいっそう強めた点」、医療水準につき厚生省研究班報告の昭和50年に発表された「未熟児網膜症の診断ならびに治療基準に関する研究報告」をもって、その具体的内容・時期の一般的基準になることを明らかにしたことに特徴があると指摘する見解(注3)、さらには「未熟児網膜症につき医療水準の具体的内容を明らかにした判例とみられる」との見解(注4)もあるが、本件判決は注意義務の基準という医療水準に関する一連の判決の流れには連ならず、経験不足で未熟な医師に過失を肯定する前提として、厚生省研究班報告の一般的基準の認識を認めた事案であると解されるべきである。
(注1)稲垣喬・民商94巻2号270頁は、「本判決は、判文上も、かかる医療水準に関する一般的命題を提示する手法によらず、改めて、『失明等の危険の発生を未然に防止すべき注意義務』を定立し、事案との兼ね合いにおいて、伝統的な過失判定における注意義務構成に依拠して、これを処理しているようにもみうけられ、この意味で、最高裁が原則的義務違反宣言をした最判昭和36年2月1日のいう医療機関についての『危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務』への強い帰還の姿勢を示しているかのような観を呈している。」とし、「経験が浅く、未熟児医療における診療の延長としての院内外における適切な受診療を指示する義務の履践がなかったという次元で、注意義務違反の存否の判断をしている点にその特色が」あるとする。
(注2)坂出市立病院事件第一審昭和53年3月31日高松地裁丸亀支部判決(判時908号82頁)は、「当該医師の過失の前提となる注意義務について、その当時の通常の医師における臨床医学の水準的知識(中略)がまず基礎とされるべきである。(中略)日進月歩の医学の研さんに努めている通常の医師によってそのようなものとして当時認識されていた臨床医学の水準(以下『医療水準』という。)をもって、まず注意義務の判断の基準となすべきである」と判断している。同判決は、最先端の医学知識を基礎とすべきではないという趣旨で「通常の医師」を基準とすべきであると判示しているが、未熟で経験不足の医師を基準とすべきではないことも当然に含んでいると理解される。
八幡病院事件昭和63年1月19日最三判における伊藤正己補足意見は、医療水準は「専門家としての相応の能力を備えた医師が研さん義務を尽くし、転医勧告義務をも前提とした場合に達せられるあるべき水準として考えられなければならない。」と述べる。
(注3)徳本鎮・ジュリ臨増862号79頁
(注4)潮海一雄・別冊ジュリ105号165頁