コラム
2023.04.24
医事法講座第24回≪医療水準論⒀【名古屋掖済会病院事件】≫
弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.
□博士(法学)
□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)
□毒物劇物取扱責任者(一般)
□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)
□エックス線作業主任者免許
□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許
□一般財団法人 日本国際飢餓対策機構(理事)
□社会福祉法人 キングスガーデン三重(評議員)
医事法講座第24回≪医療水準論⒀【名古屋掖済会病院事件】≫
第2節 昭和60年代の最高裁判決
5 名古屋掖済会病院事件
本件(注)は、産婦人科医浅井医師に眼底検査を依頼する法的義務を認めることができるかという点で争われた。
(注)上告審:昭和63年3月31日最一判(集民153号603頁、判時1296号46頁、判タ686号144頁)
第一審:昭和55年6月25日名古屋地裁(判時993号79頁、判タ419号52頁)
控訴審:昭和57年9月29日名古屋高裁(判時1057号34頁、判タ480号74頁)
事案
X(患児、原告・控訴人・被上告人)は、昭和46年2月4日Y(社団法人日本海員掖済会、被告・被控訴人・上告人)の病院(以下「被告病院」という。)で出生。女児。出生時体重は1300グラム。Xの主治医は、産婦人科医浅井医師、眼底検査をしたのは眼科の新美医師。
裁判経過
第一審:請求棄却。
医師の過失の判断基準
臨床医としての医師の医療行為に過失ありや否やは、当時の医療水準に照らして判断される。
Xに対する酸素投与につき担当医師の過失の存否
「浅井医師の酸素投与についての措置は、医学上の定説に従ったものと認められ、同医師に酸素投与につき過失ありとは認められない。」
ステロイドホルモンの有効性について
「昭和49年厚生省研究班は、『副腎皮質ホルモンの効果については、その全身に及ぼす影響も含めて否定的な意見が大多数であった』と報告している。」「右の事実によればステロイドホルモン等の投与は、もともと本症の治療法として有効ではなかったのであるから、X出生当時においても、ステロイドホルモン等の投与と結びついた意味での眼底検査義務は、存在しなかったものといわざるをえない。」
光凝固法の有効性
「光凝固法との結合性に基づく定期的眼底検査が、全国的に定着したのは昭和47、8年以降である。」という事実及び「昭和46年2月当時における一般眼科医及び産婦人科医の光凝固法に対する知見の程度に照らすと、右臨床医につき、光凝固法との結合性に基づく定期的眼底検査義務が、X出生当時における一般的医療水準を形成していたと認めえることは極めて困難である。」
過失の総合的判断
ところで、光凝固手術と結びついた、手術の適期発見のための眼底検査は、Y病院の存する愛知県についていえば、名鉄病院、名古屋大学附属病院のように、光凝固手術を実施していた総合病院では、当時既に施行されており、現に、Y病院でも、昭和45年ごろから実施していたのであるが、その実施している医療機関と、未熟児を保育器から出せる状態になったとき、産科の依頼で眼科医師が産科に出向いて眼底検査する医療機関とがあり、名古屋大学医学部附属病院は、後者の方法が慣行であった(定期的眼底検査を実施している名鉄病院、名古屋市立大学病院も、その実施時期は、昭和45年ごろからである。)。
Y病院では、当時、未熟児の保育管理を始めてから1年足らずで、定期的眼底検査に必要な設備、器具が十分でなく、産婦人科担当の浅井医師が、未熟児を保育器から取り出せる状態になって、始めて、眼科外来診察室の暗室に未熟児を連れ出し、週1回木曜日午後に来院する非常勤の嘱託医新美医師により眼底検査を受ける慣行であった。右慣行は、Y病院の設備、保育態勢及び名古屋地区における他病院の眼底検査の前記実施態様に照らし、当時の医療水準を下廻るものとは認められない。
浅井医師は、光凝固手術のための早期における眼底検査実施の必要性は認識していたものの、光凝固手術の適期についての認識は有しておらず、そのため、従来の慣行に従い、X出生期83日目の4月28日(水曜日)に保育器から取り出し、眼科に眼底検査を依頼したこと、右Xの保育器収容が長期に亘ったことについて医師としての裁量判断に誤りが遭ったとは認められないことは前記のとおりである。
もっとも、先に述べた、馬嶋医師発表にかかる本症の大部分が生後15日から55日に発生するという臨床例からすれば、Xの保育器収容が83日に亘ったことが、適期の眼底検査の時期を失わしめた一因となっていることは、結果論としては明らかであるが、浅井医師の当時の光凝固法についての知見の程度が、当時の産婦人科医師の医療水準に照らし、平均的産科医師の知見の程度をこえていると認められるこそすれ、これより下廻っていたと認めることはとうていできない(《証拠略》によれば、国立名古屋病院産婦人科医師は、昭和47年に田辺医師の説明により始めて右眼底検査の必要性を認識したことが認められる。)。
以上のとおり、浅井医師の右知見の程度と、当時における眼底検査実施の前記慣行及び、浅井医師が、Xの保育器。収容期間について判断の誤りがあったとはいえないこと等を総合すれば、浅井医師のXに対してとった前記一連の各措置に、当時における産婦人科医師としての注意義務に欠けるところありと解することはできない。」
控訴審:第一審判決を変更。
「具体的事案において担当医が当時の医療水準を超える知識を有していた場合に、当該医師の過失の存否を判断するに際しては、前示のとおり、単に当時の一般的医療水準に従って判断すれば足りるものではなく、当該医師の知見の程度、その置かれた社会的、地理的その他の具体的環境等諸般の事情を考慮した具体的医療水準を考慮して具体的に判断されるべきである」。
「浅井医師は、Xが出生した昭和46年二月当時、(1)未熟児網膜症といわれる眼疾患があり、病変が途中で自然寛解することなく進行すれば失明に至る場合があること、(2)本症は酸素を多量に投与することにより発症するものであること、(3)そこで本症の発症を予防するためには、酸素濃度を40パーセント以下に抑えるのがよいといわれているが、40パーセント以下であっても未熟児の呼吸機能が向上すれば、動脈血中の酸素分圧が上昇するので、本症の発症する場合があること、(4)貧血は本症の増強因子となりうること、(5)本症の治療法としてステロイド療法と光凝固法が存在すること、(6)名古屋地区では名鉄病院と杉田眼科医院が本症の治療のため光凝固法を実施していたこと、(7)適切な治療をするためには本症を早期に発見する必要があるが、そのためには可及的早期に眼底検査を実施するのが唯一の方法であり、可及的早期とは生後2、3週間目を意味すること、以上の事実をすべて知っていた。そして、同医師は、光凝固法は未熟児の身体に相当程度の負担を与えるものであるとはいえ、熟練の眼科医師が適期にこれを実施すれば、本症の進行を阻止する効力を有するものと理解していたが、従来本症に罹患した未熟児を取り扱った経験はなかった。」
「浅井医師さえその気になれば、遅くとも同年4月22日には、また場合によれば同月15日においてさえも、新美医師に依頼して眼底検査を受けさえることが可能であった」。そして、「この機会に眼底検査を受けておれば、Xは本症に罹患していることが発見され、時期を失することなく光凝固手術を受けることが可能となり、失明を免れえた蓋然性が大であった」。
「浅井医師がXの眼底検査を遅らせたことについて合理的な理由を見い出すことはできず、同医師には、未熟児の保育管理を担当する医師として、酸素投与をした未熟児について早期に眼科医に眼底検査を依頼し、本症の発見に努めるべき注意義務に違反した過失がある」。
損害について
「Xの未熟児網膜症は同人が極小未熟児として出生したため網膜の未熟性が素因となり、生命維持のためやむを得ず必要最小限度でなされた酸素投与が誘因となって発症したのであるから、このよう事情は損害賠償法の基礎にある公平の原則に立脚すると被害者側の事由として考慮すべきであり、Yに負担させるべき逸失利益を算定するに当っては、同じく公平の原則に立つ過失相殺の法理を類推適用して、その5割を減額すべきものと認める」。
上告審:Y敗訴部分を取消、請求棄却。
「昭和46年当時、光凝固法は当時の臨床医学の実践における医療水準としては本症の有効な治療法として確立されていなかった」から、「浅井医師としては、光凝固法を実施することを前提とした眼底検査を依頼する法的義務まではなかった」。
同医師は、「本症に罹患した未熟児を扱った経験がないこと、原審の認定によっても同医師が光凝固手術について実施の適期等詳細を知っていたとまでは認められないこと等に徴すると、同医師は単に文献等により光凝固法についての知識を一応抽象的に有したというにとどまるものというべきであり、同医師の右知見を考慮しても前記判断を左右するものとはいえない。」
検討
控訴審判決の判断は、「Y病院では、昭和45年頃より未熟児の眼底検査をはじめたが、その方法としては、未熟児を保育器から取り出した段階において、眼科に眼底検査の依頼をし、眼科外来診察室まで未熟児を連れて行き、同所の暗室で眼底検査を受けさせるのを慣行としていた。」という病院側の慣行の存在を前提とし、次の認定事実のもとで、浅井医師の過失を認定したのである。
昭和46年2月6日出生、患児は未熟児のため直ちに保育器に収容された。
出生した4、5日後、患児の母親は、昭和45年頃より本症が発症すると失明する危険があることを知っており、浅井医師に対し未熟児には目やその外の点にいろいろ障害が出るので大きな病院に転医してもらいたいという話をした。
同月28日浅井医師は、患児を保育器から取り出し、眼底検査を依頼した。
同月29日は眼科の新美医師の休診日で、眼底検査は次週に持ち越された。
同年5月6日眼底検査実施。
同月8日名鉄病院において、田辺医師の眼底検査を受けたが、左眼に網膜剥離が発生。
同月10日名鉄病院に入院。
同月14日光凝固法を実施。
同月27日眼底検査。本症が最終段階まで達しており手術を中止した。
以上の事実を前提として控訴審判決は「浅井医師さえその気になれば、遅くとも同年4月22日には、また場合によれば同月15日においてさえも、新美医師に依頼して眼底検査を受けさえることが可能であった」。そして、「この機会に眼底検査を受けておれば、Xは本症に罹患していることが発見され、時期を失することなく光凝固手術を受けることが可能となり、失明を免れえた蓋然性が大であった」とし同医師の過失を認めたのである。浅井医師が保育器からの取り出しを少し早い段階で行っていれば、本症に罹患することもなかったのではないかという蓋然性と、出生後の早い段階から患児の母親から浅井医師に対して本症の発症の危険性を危惧して転院の申出までなされている事情を考慮すれば、Y病院において眼底検査を行う慣行が存在していたという事実をより詳細に検討させる為に、最高裁としては控訴審に差戻すことも可能ではなかったかという疑問も生じる。
姫路日赤事件平成7年6月9日最二判は、「姫路日赤においては、昭和48年10月ころから、光凝固法の存在を知っていた小児科医の松永医師が中心になって、未熟児網膜症の発見と治療を意識して小児科と眼科とが連携する体制をとり、小児科医が患児の全身状態から眼科検診に耐え得ると判断した時期に、眼科の中山医師に依頼して眼底検査を行い、その結果本症の発生が疑われる場合には、光凝固法を実施することのできる兵庫県立こども病院に転医をさせることにしていた」等の事実を認定し、患児の診療当時の兵庫県及びその周辺の各種医療機関における光凝固法に関する知見の普及の程度等の事情を検討しないで患児側の請求を棄却した控訴審判決を破棄差戻した。
本件においても、Y病院の、眼科に眼底検査の依頼をして眼底検査を受けさせるという慣行が、本症を早期に発見してこれに有効な治療方法を施すことを目的として眼底検査を実施する慣行として確立していたのかどうかを控訴審において再度審理させる必要は無かったのか。疑問が無いわけではない。しかし、この点の審理をしても、控訴審判決の結論に影響を及ぼすことが明らかとはいえないとすれば、訴訟法上、最高裁としては上告を棄却するしかないのであり、やむを得ないとも考えられるが。検討の余地はある。