コラム

2023.07.31

【放射線法疫学講座】第05回≪疫学的・統計学的知見「しきい値」≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許


【放射線法疫学講座】第05回≪疫学的・統計学的知見「しきい値」≫

 

文献名の凡例

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「国際放射線防護委員会の1990年勧告」   【1990年勧告】

「国際放射線防護委員会の2007年勧告」   【2007年勧告】

「放射線関連がんリスクの低線量への外挿」  【99報告】

 

4 しきい値(閾値)

低線量被ばくによる固形がん等の疾病の放射線起因性の存在を争う場合の主張の最初に来るのは,しきい値の問題である。

放射線被ばくによって当該疾病が発症したという放射線起因性を主張すると,争う側は,被爆者の被ばく線量は,「100ミリシーベルト以下の低線量の放射線被ばくによる健康への影響は、実証されているわけではない。」と反論する.

この記述は,「100ミリシーベルト以下の低線量」の健康影響が「実証」されていないというのであるから,正確には,「100ミリシーベルト以下の低線量」の健康影響はあるかどうか明確ではないが「実証」されていないから,100ミリシーベルト以下の低線量であれば,仮にリスクがあるとしても,ないものと見做すということになるから,結果的に「しきい値」の役目を果たしているのである(「しきい値」の役目を果たしている立場を以下「LNT否定説」という。)。

5 ICRPはLNTモデルを採用している

ところが,他方でICRPはLNTモデルを採用している。ICRP2007年勧告の用語解説G11では,LNTモデルについて次のように説明されている。

「直線しきい値なしの(LNT)モデル [Linear-non-threshold model]

低線量領域でも,ゼロより大きい放射線量は,単純比例で過剰がん及び/又は遺伝性疾患のリスクを増加させる,という仮説に基づく線量反応モデル。」。

「LNT否定説」は,放射線リスクにしきい値がないことについて,理論的,実験的な裏付けがなされているものではないから,ICRPがLNTモデルを採用したのは、科学的根拠はないけれども、公衆衛生上の安全サイドに立った判断としてこれを採用したにすぎないと主張する。

6 LNTモデルには科学的根拠がある

しかしICRPがLNTモデルを採用したのは、以下のとおり、科学的資料を基に詳細に検討した結果、しきい値を認めることができないという科学的根拠があるからである。

⑴ 科学的根拠なくしてLNTの採用はあり得ない

ICRPがLNTモデルを採用したのは、詳細な解析作業を経た結果であって、科学的根拠が欠如しているにもかかわらずLNTモデルを採用したというのではない。LNTモデルが全く科学的根拠を欠くというのであれば、そもそも公衆衛生上の安全サイドに立った判断もあり得ない。科学的根拠があるからこそICRPはLNTモデルを公衆衛生上の安全サイドに立った判断として採用することができるのである。つまり、公衆衛生上の安全サイドに立った判断として採用したということ自体が、ICRPはLNTモデルが科学的根拠を有していることを認めていることを示している。

ICRPは放射線防護の研究者集団であって、放射線影響研究所 の提供する放射線被ばくに関するデータに基づいて科学的分析を行い、その結果としてLNTモデルが科学的根拠と合理性を有すると判断して、各国の放射線防護の関係者に勧告している。もし、LNTモデルが科学的根拠を欠くのであれば各国の放射線防護の専門家に勧告できるはずがない。「LNT否定説」が主張する「公衆衛生上の安全サイドに立った判断」というものも、科学的根拠と科学的合理性の裏付けがあるからこそできるのであって、科学的根拠の裏付けがないまま、LNTモデルを勧告するということはあり得ない。

また「LNT否定説」が、科学的根拠を欠く理由として挙げるのが、「疫学的証明」がないという点である。「LNT否定説」は、「疫学調査等に基づいた」証明(便宜上ここでは「疫学的証明」という。)を科学的証明と同視した上で、疫学的証明がなければ科学的証明ではないという考え方に立っているのである。この考え方に立てば、疫学的証明がない以上、他にどのような科学的な根拠があっても、それは科学的証明ではないという結論になる。しかし、そもそもICRPは、そのような考え方には立っていないのである。

⑵ ICRPは「実験的観察」を重視してLNTを採用した

ICRPは【2007年勧告】では以下のように説明している。

「(62) がんの場合,約100mSv以下の線量において不確実性が存在するにしても,疫学研究及び実験的研究が放射線リスクの証拠を提供している。遺伝性疾患の場合には,人に関する放射線リスクの直接的な証拠は存在しないが,実験的観察からは,将来世代への放射線リスクを防護体系に含めるべきである,と説得力のある議論がなされている。」

「(63) 1990年以降,放射線腫瘍形成に関する細胞データ及び動物データの蓄積によって,単一細胞内でのDNA損傷反応過程が放射線被ばく後のがんの発生に非常に重要であるという見解が強くなった。これらのデータによって,がん発生過程全般の知識の進展とともに,DNA損傷の反応/修復及び遺伝子/染色体の突然変異誘発に関する詳細な情報が,低線量における放射線関連のがん罹患率の増加についての判断に大きく寄与しうるという確信が増した。この知識はまた,生物効果比(RBE),放射線加重係数並びに線量・線量率効果に対する判断にも影響を与えている。特に重要なことは,複雑な形態のDNA二重鎖切断の誘発,それらの複雑な形態のDNA損傷を正しく修復する際に細胞が経験する問題,及び,その後の遺伝子/染色体突然変異の出現など,DNAに対する放射線影響についての理解の進展である。放射線誘発DNA損傷の諸側面に関するマイクロドシメトリー の知識の進展も,この理解に大きく貢献した(付属書AとB参照)。」

「(64) 認められている例外はあるが,放射線防護の目的には,基礎的な細胞過程に関する証拠の重みは,線量反応データと合わせて,約100mSvを下回る低線量域では,がん又は遺伝性影響の発生率が関係する臓器及び組織の等価線量の増加に正比例して増加するであろうと仮定するのが科学的にもっともらしい,という見解を支持すると委員会は判断している。」

「(65) したがって,委員会が勧告する実用的な放射線防護体系は,約100mSvを下回る線量においては,ある一定の線量の増加はそれに正比例して放射線起因の発がん又は遺伝性影響の確率の増加を生じるであろうという仮定に引き続き根拠を置くこととする。この線量反応モデルは一般に“直線しきい値なし”仮説又は LNT モデルとして知られている。この見解はUNSCEAR(2000)が示した見解と一致する。様々な国の組織が他の推定値を提供しており,そのうちのいくつかはUNSCEARの見解と一致し(例えばNCRP, 2001;NAS/NRC, 2006),一方,フランスアカデミーの報告書(French Academies Report, 2005)は,放射線発がんのリスクに対する実用的なしきい値の支持を主張している。しかし,委員会が実施した解析(Publication 99;ICRP, 2005d)から,LNTモデルを採用することは,線量・線量率効果係数(DDREF)について判断された数値と合わせて,放射線防護の実用的な目的,すなわち低線量放射線被ばくのリスクの管理に対して慎重な根拠を提供すると委員会は考える。」

「(66) しかし,委員会は,LNTモデルが実用的なその放射線防護体系において引き続き科学的にも説得力がある要素である一方,このモデルの根拠となっている仮説を明確に実証する生物学的/疫学的知見がすぐには得られそうにないということを強調しておく(UNSCEAR,2000;NCRP, 2001も参照)。低線量における健康影響が不確実であることから,委員会は,公衆の健康を計画する目的には,非常に長期間にわたり多数の人々が受けたごく小さい線量に関連するかもしれないがん又は遺伝性疾患について仮想的な症例数を計算することは適切ではないと判断する(4.4.7節と5.8節も参照)。」

⑶ 「LNT否定説」はLNTモデルに関するICRPの見解を曲解している

以上(62)パラグラフから(66)パラグラフにおいて説明しているのは、ICRPは「1990年以降,放射線腫瘍形成に関する細胞データ及び動物データの蓄積」という科学的知見と、「DNA損傷の反応/修復及び遺伝子/染色体の突然変異誘発に関する詳細な情報」によってICRP自らも詳細に検討した「実験的研究」という科学的な検討結果(この検討結果がICRPの【99報告】である。)をもとにして、LNTモデルを採用したということである。

そして(65)パラグラフでは、しきい値を支持しているフランスアカデミーの報告書(French Academies Report, 2005)があるけれども、ICRPの「実施した解析(Publication 99 ;ICRP, 2005d)から,LNTモデルを採用することは,線量・線量率効果係数(DDREF)について判断された数値と合わせて,放射線防護の実用的な目的,すなわち低線量放射線被ばくのリスクの管理に対して慎重な根拠を提供すると委員会は考える」としていることは注目すべきである。

ICRPは、フランスアカデミーの報告書や「LNT否定説」の主張するような「しきい値論」についても検討した上で、ICRPの解析結果報告である【99報告】によって、しきい値なしのLNTモデルを採用するのが正しいと判断したのである。この考え方は、UNSCEARの見解とも一致している(例えばNCRP, 2001;NAS/NRC, 2006)。

「LNT否定説」は、上記(62)から(65)にかけて論じているDNA損傷に関する「実験的研究」という部分に全く触れないまま、(66)の「疫学的知見がすぐには得られそうにないということを強調しておく」とかいう言葉だけを部分的に抜粋して強調し、あたかもICRPが科学的根拠は無いけれどもLNTモデルを採用したということを印象付けようとしている。

7 【99報告】の内容

LNTモデルを支持する根拠として、上記【2007年勧告】(65)は、「委員会が実施した解析(Publication 99)」(【99報告】)について触れている。この報告は、ICRPがLNTモデルを採用するに至った理論的基盤を提供しているので、この【99報告】について説明する。

【99報告】とは、正式名が「Low-Dose Extrapolation of Radiation Related Cancer Risk  ICRP publication 99」であり、日本語翻訳版では「放射線関連がんリスクの低線量への外挿」というタイトルとなっている。

内容は、「疫学的考察」、「低線量リスクと生物学」、「放射線誘発損傷の細胞影響」、「電離放射線の発がん影響」、「不確実性の定量解析」等の各項目から構成されており、多角的多方面からLNTモデルの科学的根拠を提示してLNT モデルを批判するグループに対して反論するという意味を有している(【99報告】ⅶ頁「招待論説」本文7行目~12行目.ⅸ頁5行目~) 。

各項目についての詳細な説明は【99報告】と原告準備書面(37)を参照していただくとして、各項目の要点だけを以下説明する。

① 「疫学的考察」(【99報告】5頁~)では、放射線発がんを引き起こす最も重要なメカニズムと考えられるDNA二本鎖切断(DSB)と,クラスターDNA損傷の誘発が1本の低エネルギー電子飛跡により生じることが指摘されている。突然変異と染色体異常生成には放射線誘発DNA損傷が基本的な役割を演じており,他方で,がんの病因には,突然変異と染色体異常が重要な関与をしている。

➁ 「低線量リスクと生物学」(同31ページ~)では、密集して放射線誘発クラスター損傷が起きた場合には、DNAの修復機構がうまく働かないことが示され、がん抑制機能が働かずに、がん細胞が増殖することも可能であると指摘している。

➂ 「放射線誘発損傷の細胞影響」(同53頁~)では、遺伝的リスクや発がんリスクが,実際に放射線が通過した細胞の数だけではなく、照射されていない周辺の細胞にも遺伝的変化が生じるかもしれないというバイスタンダー効果について説明する。

④ 「電離放射線の発がん影響」(同69頁~)では、染色体異常誘発として、DNA二本鎖切断(DSB)と修復に間違いが生じやすい非相同末端結合修復が主として重要であり、これらががんの病因において明らかに重要な役割を果たしていると指摘している。

⑤ 「不確実性の定量解析」(同85頁~)では、しきい値に関して現在有する情報は,NCRP報告書や本報告書に要約されており,これらはしきい値の存在はほとんど支持しないことを明確にし、以上の検討を経て、同報告は、動物腫瘍データは,低線量では,しきい値のない直線性線量反応関係を支持する傾向にあること、DNAのDSB 誘発と照射後の間違った修復が,がんの発生に重要な働きをしていることを指摘している。

そして、同報告は、「LNT理論は,放射線防護という実務的な目的のためには最も思慮深いモデルであることに変わりはない。」と結論付けている(同105頁)。このように、ICRPは詳細な科学的検討を経た上で、しきい値を支持する科学的根拠がないと判断した上で、LNT理論を放射線防護という実務的な目的のための最も思慮深いモデルであると結論したのであり、科学的根拠を欠くという「LNT否定説」の主張は誤りである。

以上