コラム

2023.07.31

【放射線法疫学講座】第06回≪疫学的統計学的知見「証明すべきはしきい値である」≫

弁護士 崔 信義(さいのぶよし/崔信義法律事務所)Ph.D.

□博士(法学)

□放射線取扱主任者(第1種免状,第2種免状)

□毒物劇物取扱責任者(一般)

□火薬類取扱保安責任者(甲種免状)

□エックス線作業主任者免許

□ガンマ線透過写真撮影作業主任者免許


【放射線法疫学講座】第06回≪疫学的・統計学的知見「証明すべきはしきい値である」≫

今回は,しきい値の問題を立証責任の観点から検討してみよう。

8 統計学上の問題によって「しきい値の存在」の統計的証明は不可能であること、他方「統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察」によりLNTは科学的支持を得たこと

⑴ 「LNT否定説」の考え方

この「LNT否定説」の論理は、立証すべき対象となる事実はLNT仮説(しきい値が無いこと)であり、その証明責任はLNTが正しいと主張する原告側にあるから、原告が統計的・疫学的にその証明ができなければ、100ミリシーベルト以下の低線量被ばくによって健康障害が引き起こされるリスクがあることは立証されていないことになり、原告の主張は棄却されるというものである。

しかし、「低線量放射線リスクの科学的基盤」(以下【報告書】という。)では、以下のとおり、立証されるべきはLNT仮説(しきい値が無いということ)ではなく、「しきい値の存在」であることが明らかにされており、「LNT否定説」の主張とは全く反対の考え方が示されている。

報告書のサイト https://hoshasendokufire.jp/wp-content/uploads/2023/07/【低線量放射線リスクの科学的基盤】抜粋1~29頁.pdf

・「低線量放射線被ばくのリスクを評価する主要な疫学的方法はしきい値の存在を含めて、がん死亡率または発生率の放射線量に対する線量反応曲線を決定することである。」(【報告書】11頁末行~)

・「放射線に被ばくした集団(・・・)について多くの疫学調査が行われている。しかし、・・・、線量反応が議論できる調査は少ない。また、低線量域の発がんリスクは非常に小さく統計的に検出できない場合があるが、これで「しきい値」を証明したことにはならない。」(【報告書】12頁4行~)

・「一般に、急性の放射線被ばくである原爆被爆者調査では、特定の発がんについて低線量域のしきい値の存在の可能性を否定することはできないが(特に白血病と皮膚がん)、全がんで見るとしきい値の存在を示す明白な統計的結果は示されていない。」(【報告書】12頁21行~)

・「しきい値の存在を証明するためには、影響が存在しないことを証明する必要がある」(【報告書】7行~)

等々。

上記のとおり【報告書】では、「低線量放射線被ばくのリスクを評価する主要な疫学的方法はしきい値の存在を・・・決定すること」、

「「しきい値」を証明したことにはならない。」、

「しきい値の存在を示す明白な統計的結果は示されていない。」、

「しきい値の存在を証明するためには、影響が存在しないことを証明する必要がある」などと記述されており、証明の対象はLNT仮説ではなく、「しきい値の存在」であるということが当然の前提となっている。

⑵ 「LNT仮説」とは?

さらに【報告書】では、「しきい値の存在」の統計的・疫学的証明に関して次のとおり記述されている。

「低線量域の発がんリスクは非常に小さく統計的に検出できない場合があるが、これで「しきい値の存在」を証明したことにはならない。」(【報告書】12頁8行目)。そこで、直接に低線量影響を観察する方法からしきい値の存在を証明しようとする試みもあったが、「低線量影響を直接に観察するこうした方法 には、統計的及び技術的な不確かさを伴うので、影響が観察されないということを、リスクが存在しないということと、同一視できない。同一視できない1例をあげれば、上記の疫学調査や動物実験では、第2種の過誤の確率(見落とし確率)をゼロにできない。そこで統計的な有意差が無い場合には、常に放射線影響を見落としている可能性を否定できない。従って、しきい値の存在を証明するためには、影響が存在しないことを証明する必要があるが、前述の統計学上の問題により、それは不可能に近い。発がんのしきい値の有無の判断は、統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察に期待が寄せられている。」(【報告書】13頁3行~)とした。

上記の記述は、「しきい値の存在を証明するためには、影響が存在しないことを証明する必要があるが」「第2種の過誤の確率(見落とし確率)をゼロにできない。」という理由から、統計学的に「しきい値の存在」を証明することは不可能だと結論づけている。

これはどういう意味か?

統計学では、ある立証命題について直接的に統計的に立証することはしない。その命題の反対の仮説を設定し、その仮説が正しいという想定のもとでその仮説に関する確率値(P値)を計算し、その確率値がある一定の数値(一般に5%とする場合が多い)より小さい場合にその仮説を棄却することをとおして立証命題は統計的に正しいという評価をする。その仮説は棄却される(帰無、ゼロ)ことを期待されて設定されるので帰無仮説とかゼロ仮説と呼ばれる。ただ、この方法には、二つの誤りの可能性がある。

「(a)帰無仮説が正しいのに、それを棄却する第一種の誤り、および(b)帰無仮説が誤っているのに、それを採択する第二種の誤り」であり(【統計学入門】236頁)、「第二種の誤り」は一般に「見落とし」と言われている。

【統計学入門】の抜粋  https://hoshasendokufire.jp/wp-content/uploads/2023/07/【統計学入門】(仮説検定の抜粋).pdf

【報告書】によっても明らかにされているとおり、低線量放射線被ばくのリスク評価の疫学的方法は「しきい値の存在」を証明することであるから、「しきい値の存在」が立証命題である。帰無仮説は、しきい値が無いこと、すなわちLNTということになる。つまり「しきい値の存在」を証明するために、LNTを帰無仮説 として設定し、そのLNTが正しいという想定のもとでLNTのP値を計算するのである。そして、LNTのP値がある一定の数値より小さい場合には、そのLNTという仮説を棄却することによって「しきい値の存在」が統計的に正しいという評価をすることになる。

⑶ 「しきい値の存在」は統計的に証明されてはいない

ところが、上記「第2種の過誤の確率(見落とし確率)をゼロにできない。」(同5行~)とあるとおり、「第二種の誤り」つまり見落としをゼロにできないということなので、帰無仮説として設定したLNTが棄却されないというのが上記の意味である。

もちろん、帰無仮説であるLNTが棄却されないということで、LNTが積極的に証明されたわけではない(【統計学入門】237頁の3行目~)。しかし、帰無仮説であるLNTが棄却されていない以上「しきい値の存在」も統計的に証明されてはいない。「LNT否定説」は、LNT仮説が統計的に証明されていないことを強調するが、「しきい値の存在」自体も実は統計的に証明されてはいないのである。「LNT否定説」は、このことについては沈黙しながら、「LNT仮説が統計的に証明されていない」ということだけを繰り返しているのである。

⑷ 「統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察」(LNT仮説からLNT理論へ)

① 統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察

このように「しきい値の存在」の統計的な証明は不可能なので、【報告書】では、「発がんのしきい値の有無の判断は、統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察に期待が寄せられている。」(【報告書】13頁8行~)とし、統計学とは別のメカニズムによって考察することが必要だとする。

② 【99報告】による多角的検討

この【報告書】は平成16(2004)年に発表され、翌2005年にICRPからLNT仮説に関する詳細な【99報告】の英語版が刊行され、その日本語翻訳が2011年5月に刊行されている(甲B98【99報告】)。

その【99報告】では、【報告書】が示した「統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察」を行っている。【99報告】は,「疫学的考察」(統計的考察)に加えて、それ以外の多角的な観点 から検討を加えている。

③ 「低線量しきい存在の主張は支持されない」とは何を意味するか?

【99報告】は、LNT仮説について多角的に考察した結果、「大半の臓器や組織における発がんの線量反応における低線量しきい存在の主張は支持されないであろう。」(【99報告】103頁下から2行~)とし、「LNT理論は、放射線防護という実務的な目的のためには最も思慮深いモデルであることに変わりはない。」(【99報告】105頁末行)と結論した。つまり、「統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察」を行った結果、「科学的事実は普遍的なしきいの存在を支持しない。」(【99報告】ⅲ頁下から3行)という結論となり、その結果として、ICRP等の放射線防護機関が、しきい値が無いということを意味するLNT仮説を採用するのは当然の論理的帰結なのである。

④ 「科学的事実は普遍的なしきいの存在を支持しない」

「LNT否定説」は、「ICRPは、疫学的調査等に基づき科学的に証明されたものとして同仮説を採用したのではなく同仮説を実証する十分な科学的知見がないことを踏まえつつ、飽くまで公衆衛生上の安全サイドに立った判断としてこれを採用したに過ぎない。」と主張し、あたかも科学的知見が無いにもかかわらずLNT仮説が採用されているという論調であるが、ICRPは「統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察」を行った結果、「科学的事実は普遍的なしきいの存在を支持しない。」という結論にいたったのであり、その結果としてLNT仮説が採用されることになったのであるから、LNT仮説の採用は科学的知見に基づくものなのである。

⑤ 「LNT否定説」の主張とICRPの見解の根本的な違い

このようにICRPは科学的知見に基づくものであるにもかかわらず、「LNT否定説」は、「いわゆるLNTモデルの仮説が科学的に実証されていないこと」という論理を展開している。

「LNT否定説」の主張とICRPの見解の根本的な違いはどこにあるのか?

それは、「LNT否定説」が「疫学的調査等に基づき科学的に証明されたもの」でなければ、「科学的知見」とは言えないという見解を採っているのに対して、【報告書】やICRPは、そもそも「しきい値の存在」の統計的・疫学的証明は不可能なので、「しきい値の有無の判断は、統計学上の問題を伴わないメカニズム」(【報告書】13頁8行~)をとおして考察するしかないが、その考察は、「疫学的調査」に限定されないという見解に立っている点にある。

⑥ ICRPは「疫学的考察」に限定せず多角的に科学的考察をしている

ICRPが「疫学的考察」だけに限定せず、「低線量リスクと生物学」「放射線誘発損傷の細胞影響」「電離放射線の発がん影響」「不確実性の定量的解析」等というふうに多角的に科学的考察を行った結果(【99報告】の目次)、「科学的事実は普的な遍しきいの存在を支持しない。」という結論に至っているのは、科学的知見を「疫学的調査」に限定していないことを示すものである。

⑦ 平成16年段階で「しきい値」の統計的証明は不可能と判明していた

平成16年の【報告書】において、「しきい値の存在を証明するためには、影響が存在しないことを証明する必要があるが、前述の統計学上の問題により、それは不可能に近い。発がんのしきい値の有無の判断は、統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察に期待が寄せられている。」(【報告書】13頁7行~)と発表されていたのであるから、遅くとも平成16年の段階で、しきい値の問題を統計的に証明することは不可能だということは研究者間では明らかとなっていたはずである。だからこそICRP【99報告】は,「疫学的考察」だけに限定せず、「低線量リスクと生物学」「放射線誘発損傷の細胞影響」「電離放射線の発がん影響」「不確実性の定量的解析」等の科学的考察を行っているのである。

ところが、「LNT否定説」は、しきい値の問題(すなわちLNT仮説)は、あくまでも「疫学的調査等に基づき科学的に証明されたもの」でなければ「科学的知見」とは言えないという独自の見解に固執しているのである。

⑧ 「LNT仮説からLNT理論へ」

ICRPが「疫学的考察」だけに限定せず、「低線量リスクと生物学」「放射線誘発損傷の細胞影響」「電離放射線の発がん影響」「不確実性の定量的解析」等の科学的考察を行った結果、「科学的事実は普遍的なしきいの存在を支持しない。」(【99報告】ⅲ頁下から3行)という結論に至ったことで、LNTは、単に棄却されない帰無仮説という地位から科学的知見に裏付けられた「LNT理論」となり(【99報告】105頁) 、「最も思慮深いモデル」に発展したのである 。

⑸ 【LSS14】も「しきい値ゼロ」を公表する

ICRPは【99報告】を経て【2007年勧告】においても、しきい値なしのLNT理論を採用し、「放影研」も2011年12月【LSS14】において、しきい値がゼロであることを公表した 。

このように「分科会」が【報告書】において低線量被ばくについて、立証すべきは「しきい値の存在」であることを明確にし、その後、ICRPは、【99報告】や【2007年勧告】において、「疫学的考察」だけでなく、「低線量リスクと生物学」、「放射線誘発損傷の細胞影響」、「電離放射線の発がん影響」「不確実性の定量的解析」等多角的(【99報告】の目次参照)に、「統計学上の問題を伴わないメカニズムの考察」を加えた結果、科学的事実は「しきい値の存在」を支持しないと結論した(【99報告】ⅲ頁)(下から3行~)。

その後、放射線被ばくによる健康障害に関する基礎資料を提供するという極めて重要な役割を果たしている放影研も【LSS14】によってしきい値はゼロであるという結論を支持した。

9 「LNT否定説」の「100ミリシーベルト以下の低線量の放射線被ばく」とは「γ線による外部被ばく」を意味する

⑴ 放影研の疫学調査に使用する線量には、「残留放射線や内部被曝による線量」は加味されていない

広島・長崎の原爆被爆者に対する「放影研」による健康調査等の疫学調査は、放射線被ばくの健康影響に関して極めて重要な基礎資料となっており、「放射線障害防止に関する基礎策定に携わるICRP等の国際的団体・機関における検討を支える基礎として貢献してきた。」(【報告書】11頁14行~)。

ところで、「放影研の疫学調査に使用する線量には、残留放射線や内部被曝による線量」は加味されていない(【児玉調書】6頁末行~) 。つまり、外部被ばくの線量しか被曝線量として評価されていないということであり、内部被ばくは健康影響に対する評価の対象とはなっていない。

そして放射線としてはα線、β線、γ線が主に論じられるが、α線、β線は飛程が数センチからせいぜい数十センチ程度であることから、外部被ばくの検討対象とはならない。

つまり、「放影研の疫学調査に使用する線量には、残留放射線や内部被曝による線量」は加味されていないということは、「放影研」による健康調査等の疫学調査は、γ線による外部被ばくを前提としているということになる。そして、そのような放影研の疫学調査を基礎資料として、「ICRP等の国際的団体・機関における検討」がなされているのである。

【報告書】においても、「ここでは、低線量放射線リスクとして発がんを考察の対象とし、γ線等の低LET(Linear Energy Transfer, 線エネルギー付与)の放射線による影響を特に取り上げた。」(同1頁下から4行~)とあるように、【報告書】もγ線による外部被ばくを前提としている。つまり、α線、β線による内部被ばくは検討の対象外なのである。

このような状況において、「LNT否定説」が,「100ミリシーベルト以下の低線量の放射線被ばくによる健康への影響は、実証されているわけではない。」という場合の「放射線被ばく」とは、「γ線による放射線外部被ばく」を意味することになり、「LNT否定説」は、「100ミリシーベルト以下の低線量のγ線による放射線外部被ばくによる健康への影響は、実証されているわけではない。」という主張をしていることになる。

⑵ 「LNT否定説」の主張はγ線による外部被ばくによる健康影響に関するものという点に限定されている

「LNT否定説」の主張は、「100ミリシーベルト以下の低線量のγ線による放射線外部被ばくによる健康への影響は、実証されているわけではない。」という意味になるから、γ線による外部被ばくによる健康影響に関するものという点に限定されているということになる。したがって、原告が一貫して主張してきたセシウム137等が放出するβ線等による内部被ばくについては、「LNT否定説」は全く反論をしていないということになる。

以上